この作品の作者は
k-calさんでした!
予想結果: k-cal×10, EianSakashiba
私の腕に居ついた、一匹の野蛮で原始的な蛆。その肌は下水に浮かぶ油めいて白濁し、艶めきを失った黄麻の唇は非力に震えていた。私を見上げる暗い瞳は、かつては幾多の腐肉を切り裂いた黒曜石の刃だったのだろう。だからこそ、それはすっかり腐敗に侵され、膿み、濁っていた。
蛆がいつからそこにいたか、定かではない。それはずっと、皮膚を食い破ることもなく、ただ腕の上をうろちょろとしているだけだった。焼き固められた粘土質を食い破るだけの顎を持たない、あまりに小さな蛆。そういうものにとって、私の上辺は硬く、寄る辺に向かない性質だったろう。だけども蛆は何日経っても私の皮膚を離れず、私はそれが可笑しくて、そうして蔑みを込めて、ときどき指先でその蛆を転がし、弄んでいた。それでも蛆は、私を去ってはいかなかった。
私が蛆を気に留めるようになってしばらくの後、喧しい蚊が飛んできて、私の皮膚に極小の穴をあけた。酒を飲めば忘れてしまえるほどの、とても小さな穴。だけどもそれは蛆にとって、よほど大きく見えたらしい。私が蚊の死骸をどけるや否や、その穴をめがけて、蛆は一生懸命に這ってきた。
私はすぐに合点がいった。なるほど、ここから中に入って、私を食い荒らそうというのだな。それならば、お前が必死にその顎に力を込め、やっと頭がねじ込めるくらいの大きさにまで穴を押し広げたところで、その浮腫がネジのように巻きついた体を摘まみ上げ、地面に叩きつけてやろう。そうしてお前は、のたうつ余力もなく、見向きもされず果てていくのだ──
案の定、蛆はなんとか穴に辿り着くと、その頭をゆっくりと擡げた。予想と違わぬ展開に、口角がつり上がっていく。蛆の頭が振り下ろされ、その口元が私のささやかな空隙に触れる。──だが、予想したような痛みはなかった。侵略もまたなかった。代わりに、僅かな温度があった。
蛆は穴を押し広げ、入り込むことなどしなかった。ただその口元で以て、謙虚に傷口を覆った。震えながら、暖かく、時間を止めて──予想外の行動に私が顔を歪めると、蛆は慌てて顔を私から離し、視線を避けるように腕を右往左往し始めた。穴とは距離を保っているが、何度もぎこちなく穴の方に目を向けている。
私はどうしてか、そっと二つの指で穴を押し広げた。皮膚が裂けて、蚊の吐いた麻酔、透明、淡い紅が混ざって漏れだし、溶けたステンドグラスのように肌へ広がる。怪訝に私を見る蛆へ、私は初めて「おいで」と言った。僅かな逡巡のあと、蛆は薄く張った紅を押し分けながら傷口へ近づいて、今度こそ頭を穴に突き立てた。体をねじりながら、蛆は私の中に入っていく。ずっと遠ざけていた深い痛みと熱が作り出す非現実感の中で、広がった紅とその中に突き立った蛆が、夏風に吹かれるアンスリウムのように揺れていた。
それからというもの、蛆は私の乾いた表皮を噛み砕き、その下の腐肉を啜りながら、少しずつ大きくなっていった。彼女が空けた穴を彼女自身が埋め、時折その隙間から入る風が私を凍えさせ、その凍えが久方ぶりに私と外界とを直接に結びつけ、そして外界からの凍えと彼女からの温度が、熱均衡に至っていた私の体内に再び対流を与えた。
この奇妙な共生がしばらく続き、対流も穏やかになったころ、私は、彼女がほとんど動かなくなっていることに気が付いた。しかし、私はそれに気付かないふりをした。やがて彼女の動きはどんどん鈍っていき、薄い膜が彼女を覆った。すぐに膜は厚くなり、私はもう彼女を見ることもできなくなった。それでも、私は何もしなかった。──何もしなかったのだ。そうして順当に蛹となったあなたは、静かに私の腕から零れ落ち、消えた。私の腕には、穴だけがぽっかりと空いていた。
今や、あなたの居た大穴の表面はすっかり塞がってしまった。だけども内側には、何もない空隙、進んでいく渇き、曖昧な凍えが居座っている。時折ひび割れる音がして、内に内に、その穴が広がっていくのがわかる。いつか、私の中身はすっかり穴に取って代わられてしまうだろう。そうなる前に、何かで私を満たさなければいけない。満たしたいと切望している。だけどももう誰も、外から私の皮膚を穿つことはできない。私が内から肌を破ることもない。傷が塞がるときに、私の表皮はより強固に固まってしまったのだから。だけども、あなたが戻ってきたのなら、あなただけは──
いや。あの日、私は落ちた蛹を眺めていた。そして、それを破ってあなたが飛んでいくのを見た。やはりあなたは蛆だった。そうしてあの日蠅となり、私の目に焼き付けたのだ。澄んだせせらぎの肌、乙女椿の唇、磨かれた黒曜石の双眸。あなたを遠くへ運んでいった翅は、緑酒が如く、謙虚に精彩を宿して陽光を透かしていた。
そういうものにとって、私は上辺だけで、寄る辺に値しないものであった。結局、たったそれだけのことなのだ。
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teruteru_5さんでした!
予想結果: teruteru_5×4, Fireflyer×2, islandsmaster, 1NAR1, Ruka_Naruse×3
「ヴェールの裏側で兵士として生き抜くためには何が必要か、わかるか?」
「……わからないですね」
サイト内ラウンジの一角、そこを出てすぐの休憩室内。自販機の近くに設置された横長椅子に座りながら答える。手元には封の切られた缶コーヒー。単調かつ単純な苦味が残るアイスの缶コーヒーを揺らし、未だに抱えている迷いを隠した。
「だろうな。お前の動きを見てるとそんな気がするし」
「……本当ですか?」
隣に座っている大男───僕の先輩が答える。先輩が発した言葉に若干の驚きを感じながら相槌を打つ。先輩はスポーツドリンクを飲みながら、言葉を返した。
「ああ。なんとなく、って感じだけどな」
「自分じゃ分からないですね……」
「まあ、自分の動きを俯瞰的に見るのは難しいからな。しょうがねえよ」
独り言のように先輩が呟く。蓋の閉められたペットボトルが横長椅子の上に置かれる。その様子を眺めながら、僕はゆっくりと口を開いた。
「はあ……。ところで、ヴェールの裏側で兵士として生きていくには何が必要なんですか?」
「ああ、そういや答えてなかったな。簡単なことさ。"人の心"を捨てればいいんだよ」
「"人の心"ですか」
先輩の発した言葉を反芻する。それに対して先輩は真剣なトーンで応えた。
「ああ。少なくとも俺らの作戦には必要ないものだ。あっても足手まといになるだけだしな」
「そうなんです?」
「ああ。"人の心"は一瞬の気の迷いを生む。その一瞬は敵にとっての"隙"であり、俺らのとっての"急所"だ」
僕の中に浮かび上がった疑問に対して先輩が答える。先輩の言葉を脳内で咀嚼したうえで言葉を返す。
「……なるほど」
「戦場で急所を晒すことは死を意味する。その急所を見せないようにするためにも"人の心"は捨てるべきなんだ」
「言われてみれば、確かにそうなりますね」
先輩の言葉に対して相槌を打つ。「その通りだろ?」と先輩は応えて、言葉を続けた。
「俺達は手足が捥げたとしても戦わなければならないんだ。そのうえで"人の心"など限りなく不要なものなんだよ」
「手足が捥げても戦うって」
「そのままの意味さ。ダルマになったとしても噛みつくなりして時間を稼がないといけないからな」
スポーツドリンクを飲みながら先輩は応えた。その言葉に対して、反論しようと声を発する。
「でも……それじゃあ、死んでしまいますよ」
「やっぱお前は分かってねえなあ」
「というと」
「お前は兵士なんだ。兵士である以上は組織の勝利のために、命を捧げてでも貢献しないといけないんだよ」
いつにもなく強い口調で先輩が言い切る。その様子は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「でも、瀕死の状態で稼げる時間なんてたかが知れてますよ」
「その"たかが知れた"時間が勝利につながることだってあるんだ」
「まあ……それはそうですが」
先輩の発言に対して言葉を返す。それを聞いた先輩は、ゆっくりと言葉を発した。
「いいか? 俺達は"人の心"を持ってはいけないんだ。いつか足元をすくわれてしまうからな」
「……なるほど」
「それに、常識に囚われ続けないようにしないといけない。ヴェールの裏側には"常識"なんて存在しないから」
「正常性のない世界で生き抜くには、人の心を欠落させる必要があるんだ」
そう言って先輩はスポーツドリンクを飲み干した。ちくたくという時計の動く音だけが部屋の中に響いている。休憩室内には沈黙だけが残っていた。
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Fireflyerさんでした!
予想結果: teruteru_5×3, Fireflyer×5, Dr_Knotty, Jiraku_Mogana, Ruka_Naruse
あーあ、つまんないなあ。
と、言うのも死んでからお腹は空かないわ、走っても疲れないわで退屈だったのだ。プルタブの空いた缶も飲めはしないし、駅の近くにあるベーカリーのクロワッサンは存外美味しかったというのに、もう食べられない。思い出すと結構心に来る。
死因も信号無視の車に撥ねられるとかいう面白さの欠片もないしょうもない理由だ。多分面白い死因ランキングがあれば最下位だと思う。運転手はただのブレーキとアクセルの踏み間違えだったし、誰を責めればいいのかもわからない。別に責められるほどの命の価値も僕にはないだろうし。
昨日までは街を歩いていたのだが、今日は自分の存在した証拠の菊の花が枯れてしまうのが嫌だからここでぼんやり座っている。造花交じりの菊の花々は春に見合わない暗い雰囲気を交差点全体に落としている。こういうのを見ると、別に僕はそんなに悪くないのに申し訳なくなってしまう。
まだ、家には帰れていないことを思い出す。まあ当然と言えば当然かもしれない。逆にどんな顔をして帰ればいいのだろうか。死体も検死がどうとかで帰っていないのだろう。葬儀も開かれた気配はない。
献花をする人がやってくる。薫の母親だろうか。わざわざご苦労様。でもその菊に見合う価値を僕は持ち合わせていないよ。なんなら、僕はガーベラとかコスモスのほうが好きだよ。声は中々届かない。そりゃそうか。
一応、薫とは恋人同士という関係だった。一応というのは、死んでしまえば自分が彼女の恋人なのか、そして常に寄り添い合う覚悟を持ち合わせているのかということに対して疑問を持たずにはいられないからだ。
「薫は……後で来るから、待っててあげてね……」
やめてくれよ。せっかく忘れようとしているのに。ノイズで自分の頭を埋め尽くそうとしているのに。
どうしようか。昨日みたいに電車でも見ていようか。それとも、もう誰にも合わないように遠くにでも行ってしまおうか。そんな甘ったれた考えを自分で払拭する。もう会えるかなんてわかんないじゃないか。ちょっとくらい、話そうとしてもいいじゃないか。もしかしたら漫画みたいに声が届くかもしれないじゃないか。
◇ ◇ ◇
幽霊は冷たさもわからないと知ったのは昼を過ぎて振り出した雨のせいだった。黄色で埋め尽くされた献花場にしとしとと降る雨は何も洗ってくれはしない。
こんな天気だったら来ないんじゃないかと一抹の期待をしていたものの、彼女は僕が轢かれた丁度その時、2:37に花を添えに来た。僕が相合傘をした、粗末なビニール傘を差して、ガードレールの端まで近づく。もうあの時の痛みなんか覚えてないから、「痛かったよね」なんて言わないでくれ。
「ねえ。もう会えないかもしれないけど、あんたのその捻くれた考え方も、ちょっと斜に構えた態度も、ちゃんと大好きだったから」
彼女はそう、菊に話しかける。もう悪口だろ。
「私、あなたの分まで頑張るから。私が死ぬまで待ってて」
そんなに気を負う必要なんか無いんだって。バカだろ。
「また、会いに来るね」
なあ、もし君がよかったらもう一回だけ話させてほしいんだよ。最後にした話が卒業した後の旅行はハウステンボスがいいよね、なのは嫌なんだ。そして君のその体温をもう一度、全身で感じて、心の底から君を愛させて……
彼女は涙を拭きながら、帰っていく。別に思いが強ければ言葉が届くというわけでもないようだ。馬鹿らしい。
どんな言葉だろうが生きている人間には届かないと気づいたことで──何かが吹っ切れたのだろうか──家に帰ろうと思えるようになった。感覚のない足を一歩踏み出して、家のある方へ進む。たったの3日帰っていないだけなのに、これが永遠であるかのように思えた。
◇ ◇ ◇
帰り道は案外辛くは無かった。小さなころには泣いた少し怖かった番犬も、今となってはおじいちゃんだ。この犬も僕が先に死ぬとは思っていなかったかもしれない。受験期は苦痛だった塾も、今となっては痛みなんて生きていくことの裏返しなんだなあなんてアホなことを考える。
姉ちゃん、僕を中二病だって笑ってくれてありがとう。死んだ時は一番最初にきてくれてありがとう。 父さん、最後まで僕に期待してくれなくて本当にありがとう。死体を抱き寄せて泣いてくれてありがとう。 母さん、最後まで過保護でいてくれてありがとう。多分今も泣いてるよね。
眼前に僕の家が現れる。いつの間にか出ていた西よりの太陽は赤い屋根を一層赤くしている。君無しでも家族はなんとか回っていけるよなんて語ってくれているのだろうか。
玄関先の段差に立って、深呼吸をする。もう生きてはいないけど。
「ただいま。」
僕が成仏するにはもう少し時間が必要かもしれない。
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Dr_Knottyさんでした!
予想結果: teruteru_5, Fireflyer, Dr_Knotty×6, Jiraku_Mogana, islandsmaster, Ruka_Naruse
[一枚目]
拝啓
長雨が続きますがいかがお過ごしでしょうか。私の方は雨の日は外に出ることもなく、雨垂れの跳ねる音を聴き、庭の紫陽花を眺めては日々を過ごしています。手紙を書く時間が多くなり、便箋とインクは減りゆく一方。雲の切れ間がまた訪れたら、纏めて買い足さなくては。ああ、そうとなれば文具だけでなく珈琲も買わねばなりませんね。
ええ、最近はあなたの淹れていた珈琲なども見様見真似で淹れるようになったのですよ。あなたと同じ銘柄のものです。液滴の生み出す波紋を眺めるのが日々の楽しみとなりました。味の違いなどわからぬだろうにとお笑いになるでしょうか。それとも、また一つ空虚を埋めて人に近づいたのだねと喜んでくださるでしょうか。
ひとに近づくということ。そのために書き連ねて来た手紙も、これで十になります。「おまえたちの思考機構は言葉によって築き上げられたものなのだから、おまえの見た世界を言葉にして綴り続けることで、お前の何かが埋まるかもしれない」そう仰って、あなたは私にここで人と変わらぬ日々を独り過ごせと命ぜられた。「その琺瑯の眼に映った入力情報を、人を模したその頭脳による演算結果を手紙として出力して御覧」という命令をくださった。誰か一人の模倣に偏ってはいけないからと立ち去ったあなたの濡れた背中の映像を、私は雨が降るたびに想起しているのです。思い出した所で、この頭に何か人の言う感情らしきものが浮かぶわけでもないのですが。書き綴った十通の文は、私の何かを変えているのでしょうか。はたして成果は出ているのでしょうか?
最近は疑問に思うことが増えました。本当に成果が出たほうがいいのだろうか。人に近付こうという試みは、はじめから人であった者達からはなされえない行動なのではないか。この紙片を積み上げた果てに待つのは何なのだろう。その疑問が、嚙み合わない歯車のごとく空転し続けているのです。
[二枚目]
あなたはどうお思いになるでしょうか。私は、何かに近づいているように見えますか? それはあなたが喜んでくださるような変化でしょうか?
いつか、またこの庭においでになった時にお聞かせください。あなたの濡れた柔らかな瞳が私の琺瑯の眼の中に何かを探しているあの時間を、私は存外気に入っているのです。それまでは、この疑問について考えることは止めておきましょう。またお会いできる日を楽しみに待っています。体に気を付けてお過ごしくださいね。あなたは崩すだけの体調をお持ちなのですから。
追伸: ごめんなさい。急に便箋が途切れて驚かれたかと思います。手元が狂って手紙の終わりを汚してしまったから、切り落として続きを別の便箋に書いたのです。こんな事をしでかしてしまうなんてはじめて。これも変化の一つなのでしょうかね?
この作品の作者は
Jiraku_Moganaさんでした!
予想結果: k-cal, teruteru_5, Fireflyer, Dr_Knotty×2, Jiraku_Mogana×6
休憩室にカニがいた。
完全な屋内である。扉と机があるだけの小さい部屋だ。その床の隅にカニがいた。
サワガニなんかの小さい奴じゃない。大きさは10 cmくらいはあった。種類はわからない、カニについては全然詳しくないから。イソガニとかシオマネキとか名前だったら聞いたことはあるけども、それがどんな奴かは知らないからこのカニがそうなのかはやはりわからないのであった。特徴としては色が全体的に茶色くて、片方のハサミが大きかった。もしかしたらもう片方のハサミはなくなっていたのかもしれない。
カニを認知して、まず最初に感じたのは安堵だった。実験で疲れて水でも飲もうと部屋に入ってふと斜め下を見やると何か黒い塊がいる。真っ先にゴキブリじゃないかとドキリとするのは当然である。どうやらそうではないとわかってもムカデやヤモリか何かじゃないかと思って慎重にそばに寄った。そこでようやくカニだと分かって安堵したのだ。そして靴の先でカニを小突く。動きはなく既にこと切れていた。
はたしてこのカニはどこから来たのだろう。この場所は比較的川が近いのだが、それでも数百メートルは離れている。カニの小さな体ではここまで歩いてくるのは結構な旅路であったことだろう。よく見ると体にホコリがついている。さぞかし困難な道のりであったであろうことが伺えた。
はたしてこのカニはどうしてこんなとこまで来てしまったのだろうか。固い床板は彼の脚には合わないことだろう。もしかして住んでいたところを追われでもしたのだろうか。川に強い暴れん坊カニがいきなり現れて縄張りを奪われたとか。ここ数日の天気は雨続きだった。もし暴れん坊カニの圧政に苦しんでいるのであれば、増えた水場が逃げ出す好機として魅惑的に見えたのかもしれない。辛い現状を打破するため出奔し、希望を胸に抱え新天地を求め、その結果辿り着いた最期がこの有様だ。そもそもカニがどこで暮らしていてどこで死ぬのか自分は知らない。だが少なくとも無機質なタイルの上には彼の生涯は無いはずだっただろう。ホコリにまみれ、灰色の低い天井の下で彼は何を思って死んだのか。自分は想像するしかできないし、自然界の死に「かわいそう」というのが正しいのかもわからないのだった。
と、一通り思いを馳せた後、まぁそれはそれとしてカニはゴミ箱に捨てた。素手は嫌なのでティッシュで掴んで捨てた。よく考えたらそこまでカニに思い入れもない。そもそもカニはあんまり私の食の好みじゃなかった。食べるのに手間かかって面倒臭いし、その割に味は薄いし、だいたいカニ酢の味な気がする。回転寿司屋行ってもカニの握りとか頼んだことない。500円とかするからそれだったらエビ2皿とか頼んだ方が私にとっては満足度が高い。あ、でも、茹でた毛ガニは美味しかったな。あとカニチャーハンも美味いけどあれはカニの美味さっていうよりはチャーハンの美味さな気がする。まあモノによるのかな。あんまり好んで食べてないから本当に美味しい食べ方を知らないだけかもしれない。いやでも結構な高級中華行ったときに食べたカニもそこまでではなかったな。醤油ベースのタレの味の方が印象に残っている。
話が逸れた。
そもそも休憩室は実験室と扉一枚隔てた部屋なのだ。今回は休憩室までしか入ってこなかったから良かったものの、もう少し中まで入っていたらそこにはコンタミ禁止の材料や繊細な実験機器などがある。もしその中に入り込むことがあったら……。混ぜ込まれて実験失敗、不純物にアスタキサンチンが検出されました!だなんて考えたくもない。ハエとかならまだしもあの大きさのカニだ。もし排気口か何かから内部に入ってそのまま精密機械でも動かしでもしたら間違いなく故障する。カニ一つとっても事故の原因となりうる、リスクを見逃さずしっかり評価をすることが大切であると改めて認識した。こういった危険を見抜く意識が欠如しているとそれは事故を招くものなのだ。カニが招くのはシオくらいで十分だ。
この作品の作者は
islandsmasterさんでした!
予想結果: teruteru_5, Fireflyer, Jiraku_Mogana, islandsmaster×5, Ruka_Naruse×3
冷たい風の吹き上げる、珍しく穏やかな午後だった。
久々に良い出来の缶詰に当たり、心地よい満腹感に包まれて、私は荒れ果てた中庭に出た。サイレンの音はまだ遠い。ゆっくりと伸びをして、コートの襟を緩めようと手を伸ばす。
そうして不意に衝撃が来て、私はそれを悟ったのだ。
胸の中央、ささやかにも確実に私を支えてきた拳大の臓腑の拍動が、今はもう感じられないことに。
*
君は死んだのだ、と医師は言った。
困惑とともに立ち尽くす私の脇で、袖口に十字章を縫い込んだ兵士たちが、何かを大事そうに拾い集めては黒い袋に押し込んでいた。それは半分が見慣れたかたちで、半分が直視し難いものだった。内側にゆっくりと落ち込んでいく幾何学構造。ぬめるような質感、黃緑に輝く液面。指をすり抜けていく結晶体。
数十キロ四方が元晶兵器の直撃を受けていた。超次元干渉技術の産物が戦争に転用されるようになって、まだ半年も経っていなかった。4次元の生命体がこの宇宙に存在したまま38次元の非物理構造に転化され、数ナノ秒後に元に戻されたとき、何が起きるのか誰もはっきりとは知らない。
私は茫洋としていて、すべてを他人事のように感じていた。軍医の機械の両眼がひっきりなしに蠢いて、私を知覚するためのフィルターを今まさに処方しているのが窺えた。風音と男たちの靴音が響く他に、崩れかけた納屋にはなんの振動もない。鳥の羽搏きも虫の囀りも、吐息も話し声も何もなかった。死んだように静まり返っていた。
私は自分の掌を見た。新時代の大量破壊兵器に蹂躙されたとはとても思えない、まるで五体満足に思える掌。
しかし熱がない。そこには脈がない。そこには匂いと抵抗がなく、衣擦れも触感も重量すらもない。
君は死んだのだ、と医師がもう一度言った。私はやはり困惑した。
*
私には肉体がない。そしてそのことへの実感もない。
病棟の中で私は立ち竦む。私のことが見える者も見えない者も、私のことを扱いかねている。
後送された軍病院で、同じような人が何人かいた。彼らは家族を失っていた。友人、同僚、あるいは見知らぬ誰かを目の前で無惨にも分解され、そして天文学的な確率でもって、自身は消滅を免れていた。ある者は怒りと憎しみに燃え、ある者は失意に打ちのめされていた。誰も彼もが苦しんでいた。私自身と同じように。
しかし私の知る限り、彼らの誰一人として、己の存在を疑ってはいなかった。二度と食事ができないことにも、気を抜けば地面にめり込む身体にも、道行く人の半分以上に認識されないという現実にも、彼らは適応しようとしていた。憤怒によってか恐怖によってか、あるいはただ生き延びたいがためか、彼らは受け入れることに決めていた。
私はそうではなかった。
何ヶ月が過ぎようとも、私には理解ができなかった。否、理論をどれほどに聞かされようと、私には実感できなかった。自身の肉体の埋葬に立ち会ってさえ、私の心は今の身体と同じように中空に浮いていた。
それはまるで両親が死んだときのようで、あるいは学費が尽きたとき、従軍を決めたとき、敵兵を殺したとき、そして肉体を喪ったあのときとまるで変わっていなかった。それが己の身に起きた事実であるという認識と情動が、私には致命的に欠けていた。それは許されるべきではないことのように思えたが、しかし自らを罰するというほどには、倫理的な信条も私にはなかった。
私には何もなかった。
私はただ困惑しているだけだ。
*
死んだのにここにいるのか、と医師が言った。
私は控えめに頷いた。粗雑な作りの戦場墓地の脇で、彼はうんざりしたように頭を掻いた。以前は肉と骨でできていた彼の腕は機械のそれに代わっていて、その脇にはいくつもの黒い袋が積み重なり、私のときと同じように、触れられない結晶が散らばって黄緑色に輝いていた。
最初の使用から1年が経って、主だった大国は元晶兵器が作り出す傷跡に耐えきれなくなり、どうにかしてお互い同時にそれを振りかざすのを止めるべく藻掻いていたが、それでももうしばらくは緩慢な撃ち合いが続くようだった。トラックの中、短波ラジオでそれを知った兵士たちは口々に罵倒の言葉を吐き出した。私はそんなものかと頷いた。
結局、私には実感がない。ここに来る前からなかったものが、今もないというだけのことだ。
今日からお世話になります、と言う私に、医師は何も答えず手を振った。彼はもう諦めているようだった。すべてが他人事であるように、彼の目のレンズはピントを合わせることを放棄して、ただ緩やかに回転していて、私にも死体にも地平線の向こうまで続く戦場にも、彼自身にも向いていないようだった。その姿勢はとても共感できるものに思えて、私は少しだけ嬉しくなった。
戦地に戻る私のことを英雄と称える人もいれば、怪物と恐れる人もいた。私からすれば、どちらとも言い難い。
私には何もないだけだ。
この作品の作者は
1NAR1さんでした!
予想結果: 1NAR1×10, EianSakashiba
岩が手から転げ落ち、坂を転がってゆく。岩肌にばちばちと音を立ててぶつかりながら、欠け落ちる事を恐れずに岩は転がる。気付けば無数の岩がその横を転げていく。大小様々な岩が、競うように、身をよじる様に、きらきらと鈍く光りながら崖下の海へ駆ける。
照明の消えた6畳のワンルーム。ノートPCと小さなテレビだけが部屋に影を作っていた。ギターソロのアルペジオが今一つ形にならず、今夜はもう寝てしまおうかなんて考えながらグラスを手に取り、傾ける。空になったグラスは唇を潤してはくれなかったけれど、酒器の中に留まったアルコールと木の匂いがほんの少しだけ思考の結び目を緩めてくれた。
煙草の箱を手にするが、これまた心もとない重量までかさを減らしてしまっていた。アイルランドの弓兵が最後の一本になった弓をつがえるようにロングタイプの煙草を取り出す。吸い口を湿らせながらテレビに目を移すと、見知った顔が映っていて思わずヘッドホンを外した。
実家の飼い犬が死んだ時を不意に思い出す。伝説的ギタリストの名が付けられたミックス犬は、14年という伝説的ではない寿命を迎えてごく一般的に死んだ。何かを不可逆的に失った経験が初めてだった私は、恐ろしくてひどく泣いてしまった。何かを欠き、失うという事がとても恐ろしかったのだ。その時はお母さんも、驚くべきことにお父さんすら泣いていたのだけれど、お姉ちゃんはずっと、微笑むように、諦めるように、犬の背中を撫でていた。
有名な音楽番組の、夏の生放送特番。画面越しに見る姉は、十代だった頃よりずっと堂々としていた。自ら話しこそしないが、バンドメンバーのからかいに笑いながら肩なんてすくめていた。彼女が歯を見せて、ぎらりと鋭く笑うようになったのは、一体いつからだっただろう。
新譜の宣伝が終わり、スタジオ演奏が始まる。メジャーデビューして久しい姉のバンドは、初めこそアイドル崩れのガールズバンドだと揶揄されることもあったが、二枚目のアルバムが出るころにはそんな外野の声も聞こえなくなった。ステージでギターを振るう、私がこうなってしまった原因である忌まわしいロックスターは、初めて私に軽音楽の呪いをかけた時と同じように、微笑むような、諦めるような顔を浮かべながら、ギラギラと輝いていた。
犬が死んだ夜、お姉ちゃんの部屋から珍しくヘッドホンではなくミニアンプ越しのギターの音が聞こえてきたのを思い出した。お姉ちゃんの歌声を聞いたのはずいぶん久しぶりだったと思う。日が沈み、温かさを欠落した事を嘆くその歌詞は、私を決定的に音楽へと追いやった。翌日、私は自前のギターを買いたいと、父に頼んだ。
ロックンロールとはきわめて本質的な名称だと思う。岩が転がる。前を行く岩に魅了されてしまった以上、後を追わずにはいられない。真っ当な勤め人としての健全な生活。愛しい物との離別。叶わなかった望み。あるいはそれらすべてを内包した自身の人生。そんな失い難く貴重な、片手にぎりぎり収まらない大きさの岩。それを崖下に放ってやる。岩肌にばちばちと音を立ててぶつかりながら、欠け落ちる事を恐れずに岩は転がる。気付けば無数の岩がその横を転げていく。大小様々な岩が、競うように、身をよじる様に、きらきらと鈍く光りながら崖下の海へ駆ける。
気付けばさっきまで今一つハマらなかったギターソロのアルペジオがルート音のトニックコードに着地していた。上々だ。譜面にメモを残しつつテレビを見やると、音楽番組は既にエンディングを迎えている。放送終了時間が迫っているのか、名前も知らない男性アイドルグループが焦る様に早口でキィキィと喚いていた。出演者が順繰りに映され、姉のバンドが画面に乗る。ドラムスとギターボーカルがはしゃぎながら手を振り、ベースが舌を出し、最後にリードギターの私のお姉ちゃんがにへら、と笑いながら右手で中指を立てた。
馬鹿野郎、と思わず声を上げながら笑い、後方の万年床に寝転がる。咥えたままだったタバコにようやく火をつけて、画面の向こうの姉にも見えるように虚空へ両の手で中指を立ててやった。いつかの姉の歌声と、煙草の紙が燃える音と、岩が転がる音が聴こえた。
この作品の作者は
EianSakashibaさんでした!
予想結果: Dr_Knotty, Jiraku_Mogana×2, islandsmaster, EianSakashiba×6, Ruka_Naruse
娘には、倫理というものが欠落していた。正確には芸術の前になると、無意識に欠落すると言った方が正しいか。
娘は両親と共に帝都郊外に暮らしていた。何故憲兵達も見て見ぬふりをするほどに治安の悪い場所で子を拵えたのか、愛し合った男と女は人前に出れぬ身だからだった。
男と女はこの世界の出自では無かった。他の世界から駆け落ちていたのだ。男は元の世界では被差別者であった。全身を覆う毛、爪と尾と鱗、熊より大きく歪な体躯、そのくせ人の語を解す。女は正常な人間であったが、男と恋に落ち、身篭り、疎まれた。世捨て人となりこの帝都に流れ着き、娘はそこで産まれた。
二人の血が交わった娘は獣と人、ちょうどその中間に位置する猿の様な面であった。男と女は娘に平穏を望み、娘もその通り淑やかに生きようした。あまり外に出ず、人と会わず、紙と筆を執り絵や文を書いた。時には手の届かない高級義躯の装飾を自分で創造したりもした。鉄の義躯は獣の躯を覆い隠すため必要以上に入り用になり、一つ一つに高性能さを求めることはできなかった。帝都にはより良い娯楽もあるのに、ぼろ屋の外に出て、藁のストロを咥え、三人でシャボン玉を吹く事を何より楽しんだ。
娘は、芸術になると欠落者の様に振る舞った。デパアトのウインドウに並ぶ精巧な刺繍や透く様な硝子細工を認めると、ウインドウを割らんばかりに獣の腕を振り下ろし、猿の様に興奮した。美しい景色を認めると、それを残そうと絵筆を執り、数刻は微動だにしなかった。シャボンの球を完全な形と称し、何百枚も模写をした。流行りの歌謡曲よりも、母の歌う子守唄が好きだった。
夜、娘が日銭を稼いだ帝都郊外の帰り道、綺麗な歌が聞こえてきた。それは子を寝かしつける様なものではなく、虫を惹きつける光の様な「呼び声」であった。娘が歩いた先に奇妙なものがあった。
炎、それは間違いない。然しその形状が異常であった。球の形状を保ち宙に浮かぶ、内部で絶え間なく螺旋状に燃え上がる炎であった。それは娘に問いかけた。
「汝、真の芸術を見たいか。」
娘は芸術と聞くや否や猿となった。
「家に戻ると良い。紙と絵筆を携えて。」
娘は猿の様な尋常ならぬ速さで路地裏を駆けた。父が自動人形を拾ったのだろうか。母が絵を買ったのだろうか。娘は芸術の前になると人としての何かを欠落するが、両親だけは取りこぼさなかった。どんな芸術でも、お父ちゃんお母ちゃんと見れたら素晴らしいものだろうと言う考えを持っていた。
娘が帰ると、家が燃えている最中であった。炎の中からは、悲鳴とも怒号とも決めつけれぬ絶叫が聞こえた。
家の周囲には郊外のごろつき共が、畜生が人間様の真似事をして前々から目障りだったとか、義躯が中古品だから簡単に暴熱超過の細工が出来ただの、楽しげに話していた。
娘はその光景を、地獄だと思った。娘は地獄を見た事がなかった。
だから娘は、二度と拝めぬやもしれぬ眼前の地獄を、描き尽くす事にした。
腰を下ろし、絵を描く。乱れる炎、炭になる家、ごろつきが咥える煙草、ぷかぷかと浮かぶ紫煙、地獄の中、畜生二人の声。
少しして、ごろつきの一人が隅で何やらじっと炎を見つめている存在に気づいた。近付くとどうやら醜女が絵を描いているらしい。ごろつきは揶揄うつもりで娘を蹴り飛ばし、筆を折り、紙を破いた。普通の女なら啜り泣くはずであった。しかし醜女は、地獄に堕ちた畜生共のような絶叫を発し、炎の中に飛び込んだ。他のごろつきもその時気づき、警戒を強めた。
地獄から出てきた時、娘は人でも獣でも猿でもなかった。二振りの刀を携えた炎であった。炎に晒され槌に打たれ、細長く変容した鉄。刀などという時代錯誤の武器では傷一つつかぬはずの義躯が斬られ、切り口から火の手が上がった。逃げようとしたごろつき共は、周囲にぷかぷかと浮かぶ円い炎に気付かず、破裂した螺旋に焼き尽くされた。
郊外を見て見ぬふりしていた憲兵の対応が遅れ、鎮火は夜明けとなった。火の勢い自体はそこまで強くなかった筈なのに、家中から遺体は見つからなかった。更に奇妙なのは下手人と思しき男たち数十人が皆殺しにされていた事だった。結局放火事件は迷宮入りとなる。
地獄に自ら堕ち、夢から醒め、炎となった娘は「呼び声」に導かれ帝都から脱し、外法の街大阪に来ていた。お父ちゃんとお母ちゃんはヒトの世から居場所を奪われようと、其れでも互いを愛していた。
然れどもヒトの世が愛と言う理すらも奪うのならば、おれはヒトの世のくだらぬ業を燃やし阿鼻地獄に変える修羅となろう。
外法大阪の辻斬りは、人ならざる身のこなしで炎を纏う刀を振るう。鞘の欠けた抜き身であるのは何故かと噂されたが、欠落とは元々あったものが欠けた事を言う。
炎に、鞘など無い。其れこそが芸術の真髄。
辻斬りは藁を咥える。藁は円いシャボン水を浮かべる事は二度となく、何故か焦げ臭い紫煙を燻らすのみだった。
この作品の作者は
Ruka_Naruseさんでした!
予想結果: teruteru_5, Ruka_Naruse, konumatakaki×9
「ときに聞くが、君が一番好きな絵画は何だい?」
「え、どうしたんですか急に」
金曜日の13時。俺の大学の近くのカフェで、芸大に行った先輩と遅めの昼食兼近況報告を行うのはすっかり習慣となっていたが、先輩が芸大生らしい話を持ち出したのはこれがおそらく初めてだ。
「ほら早く、直感で良いから」
「えぇと……じゃあ、ひまわりですかね。ゴッホの」
好きというよりは、今真っ先に思い浮かんだというだけなのだが。しかし先輩を満足させることは出来たのかうんうんと頷いている。
「じゃあ次。君が一番好きな彫刻は何?」
「何って言われても、彫刻なんか知らないんですけど」
本当に何がしたいのか見えてこない、しかし俺が困惑するのも想定内なのか先輩はタブレットを取り出して俺に見せてきた。
「そういうと思って、幾つか写真を用意してあるよ。このフォルダから選んで」
「なんでまたそんな用意周到なんですか。えっと……これで」
タブレットを左から右へなぞりながら暫し悩んだ末、俺は直感的に目についたそれを指さした。頭の欠落した天使……いや女神?像だ。
「サモトラケのニケだね、なるほどなるほど」
「あのー先輩?何だったんですかこれ」
俺からタブレットを取り上げた先輩はそのままタブレットを淡々と操作していく。覗き見るにエクセルを弄っているようだ。
「まあ白状するとボクが大学でやってる研究の一環でね。君みたいに美術に全く造詣のない人間の芸術的な好みの傾向を分析するっていうやつさ。これの結果がまあ面白いんだ、見てみてよ」
「これは……絵の方ですか。見事にバラバラですね」
再び手渡されたタブレットで、男性と思しき人名の横に聞いた事のあるような名前の絵画が記された表を眺めていく。特にこれと言って特徴的な傾向は内容に見える。
「そうだね、じゃあシート2を見てごらんよ」
「こっちが彫刻ですかね……んん?これは……」
ずらり、そこに並ぶ名前は見事にサモトラケのニケばかりだった。当然それ以外の名前も混ざってはいるのだが、明らかにマジョリティとその他の構図になっていた。
「凄いですねこれ、どうしてこんな偏ってるんですか?」
「どうしてだと思う?」
「どうして、って……」
全くの門外漢である俺にどうしてそんな事を訊くのか。何らかの意図を汲み取ろうとはしてみるが、どうにも想像がつかない。取り敢えず、俺がこれを選んだ理由を自己分析してみる。
「んー……神秘性、でしょうか?頭や腕の欠落が神秘的に見せてる、とか」
「まあ、案外いい線行ってるんじゃない?」
当たらずも遠からずと言いたげに上から目線で頷いてみせる。そこはかとなく馬鹿にされている感じが拭えない物言いに俺はたまらず言い返す。
「む……じゃあ先輩は正解を知ってるんですか?」
「推測だけどね、まず間違いないと思うよ。ただまあ、折角だから次までの宿題にしたいなって」
どうにも先輩はわざわざ俺にこの件について熟考させたいらしい。何を企んでいるのか判らないがいずれにせよ余り気分のいいものでは無い。
「なんでこれにそんなに拘るのか知りませんけど。まあいいですよ、そこまで言うなら。……ん?」
SNSの着信音が連続して会話に割り込んでくる。短文を刻んで送ってくるその癖は心当たりがあった。
「どうぞ?確認してくれて構わないよ」
「すいません。じゃあ失礼して……ああ、やっぱり」
「お、例の子かい?」
「そうですけど……その言い方だと何か良くないものみたいじゃないですか」
メッセージの送り主は『Hal=CA』。SNS上で同じコミュニティにいる人で、何度かボイチャで話している内に仲が良くなり、遂に実際に会って遊ぶ予定まで漕ぎつけてしまっていた。その日が今週末で、メッセージはその件についての細かな確認だった。
「ネットで知り合った女の子とサシで会うなんて"良くないもの"の最たるものじゃない?」
「先輩、ちょっと考えが古くないです?それにハルカさんはそういうのじゃないですよ」
「わかったわかった、冗談だからそう真顔でなじらないでくれよ……全く」
「釈然としませんね……おっと、通話で打ち合わせたいみたいです」
「いいよ、じゃあ今日のところはお開きにしようか。今日はボクの奢りで良いよ、嫌な気分にさせたみたいだしね」
先輩は勝手にそんな話を取り決め席を立ち、伝票を持ち去ってしまった。
デートじゃなくてオフ会ですって
それは失礼、それでどうだった?実際に会ってみてさ。
とってもいい人でしたよ!話も面白いしお洒落だったし
お土産期待しててくださいね、何がいいです?
◇◇◇
ベッドにスマホを投げ出し、溜息を天井に吐き捨てた。
「ああ、つまんないの。顔より中身ってか……道理でボクに靡かない訳だ」
この作品の作者は
konumatakakiさんでした!
予想結果: Fireflyer, Dr_Knotty, islandsmaster×3, 1NAR1, EianSakashiba×2, Ruka_Naruse, konumatakaki×2
扉を開けると、暖かい空気が首筋の古傷を撫でた。今日は要らないかな、とよれた外套を壁の出っ張りに戻して共同住宅の扉を閉める。私がここに住むようになってから、三度目の春だ。
朝日を背に、目覚めつつある街を進む。私の住んでいるここは悪くない地域だ。東に行けばすぐに駅まで続く大通りに出られるはずだし、歩いて行ける範囲に色々な店もある。最近では輸入品の缶詰や海外の本も手に入るようになってきた。そういった本を隠れずに読むことができるのは嬉しい。
日常が戻ってきているように感じる。いや、私はこの街のかつてあった日常を知らないのだけれども。初めてここに来た時には、建物も少なくて、残っていた壁にも煤とか色々な痕が残っていた。そこから瞬く間に真っ直ぐな道路が東西南北に引かれ、仮設の宿舎が解体されて、街がもう一度作られた。
昔はあちこちにあった「自由」市場も今では見なくなって、今ではきちんとした路上販売店になっている。女性が周囲を警戒せずに手を外套から出して歩けるとは、安全になったものだ。南からの澄んだ海風に吹かれながら、左に曲がって風上へと歩いていく。
真っ直ぐな、少し下る坂道の正面に見える線路。この時間にあの東に向かって減速している列車が見える時刻であれば、駅には余裕をもって間に合う。念のため懐中時計を確認するが、ちゃんと問題ない。最初の頃は急いで敷設された線路だというのもあって、時間通りに来ることのほうが珍しかったのだが。
やはり、この街に来て良かった。帽子を外して新しい生活を始めるに当たって私に選べる職はあまりなかったとはいえ、それでも勤め先と住む場所ぐらいの選択肢はあった。だから、彼女から聞いたことのあるここを選んだ。
飴を分けてあげたことをふと思い出す。いつも笑顔で、一番の腕前で、私の命を何度も救ってくれたこともある彼女は、甘いものが好きだった。
私はあまり彼女に話しかけることはなかったが、彼女は私に色々と半ば一方的に語ってきた。自分がここに来た理由について。海が近くにある出身の街について。線路の先にある見晴らしの綺麗な岬について。昔からお世話になっていた街のお店で働く色々な人たちについて。婚約者の親がやっている大通りに面した街一番の食堂について。その店を継ぐことになっている背の高い婚約者について。彼がこっそり作ってくれた砂糖をたっぷりと入れた菓子について。
彼女は別れ際に、私を変えようとしてそういう話をしていたのだと言っていた。彼女が言うには、最初に会った時に私を古参だと思ったらしい。昔から、表情が硬いと言われていた。他の人が悩む時に、私はすぐに決断を下せた。彼女はそういう私があまり好きではなかったらしい。
それは、彼女の言う私の中にあったどこか失われた部分を埋めてくれたのだろか。私は変われたのだろうか。
そうでなくとも、三年前に色々なものが終わって、変わって、始まった。私も女性らしい職を見つけて、勤め人としての日常を始めている。だから自分が変わったのか、それ以外が変わったのかわからない。もとから私はこうだったのかもしれない。ずっと何かが欠けたままで、これからもそのままなのかもしれない。
また左に曲がって、線路沿いに歩く。しばらく行けば駅だ。眩しい朝日が私を刺す。人が増えていく。何か料理の匂いがする。匂い。そうだ。私はあの場所の匂いを覚えていない。
まだあの体験を思い出す人はいるそうだ。眠るのが怖い人もいるそうだ。私にはそれがわからない。あの時の記憶は映画のように白黒で荒くて音がない。彼女の様子だけは生き生きと覚えているけど。
視界に入るものが、古い建物がまだ残っている町並みに変わる。通勤のために人々が行き交い、新聞売りの声が響く。喧騒が多い中にいると、生きているという実感が湧いてくる。
「一つおくれ」
「いつもどうも、お姉さん」
私が投げた硬貨を掴んだのと反対側の手から紙の束を受け取り、ばさりと開く。難航する条約締結、今後の方針と多額の支出で揺れる議会、あとは無茶をやってしまって回復しない経済とか、まあその他色々。幸い、今の私にはあまり関係のない話だ。細長く折って鞄に入れる。電車の中でゆっくりと読もう。
私はまだ一度も歩いたことがない大通りを背に、まもなく列車が到着する構内へ足を踏み入れた。