表彰台以下の順位に価値なんてねえよ
- meshiochislash
700字文体トーナメント: ウィナー!
決勝開催中!
テーマ: 引用指定 - ことわざを一つ以上引用
現在投票期間中! 投票は以下のグーグルフォームから! また、精鋭当て部門と文体人気投票も同時開催中!
注: 準決勝進出者は投票しないでください!
開催期間
4月13日 ~ 5月11日(参加人数によって変動予定)
決勝投票締め切り: 5/19 12時まで
参加方法
Twitterアカウント@meshiochis1ashのDMか、meshiochislash does not match any existing user nameのwikidot PMに名前を明記した上で参加申請。
参加後、以下のグーグルフォームに必要事項を記載して送信。(参加申請していない人は送らないでください!)
なお、決勝はDMにて送ってください。
注: 自身の作品はメモしておいてください! また、敗退者は作品を投稿しないでください!
レギュレーション: ①700文字以内 ②今まで世に出していない ③1作まで
参加条件
wikidotアカウントにログイン可能であること。
ルール
- グループ分けトーナメント。SCP-JPのコンテスト実績にてシーディング。トーナメントはこちら。
- 得点は3つまで面白い記事を選択し、一番に3点、二番に2点、三番に1点を入力する。この際、参加者は自分のブロック以外に投票すること。同点が発生した場合は主催者のコネで追加投票をしてもらうが、それでも集まらなかった場合は主催の裁量かサイコロでどちらかに0.5点を追加する。
注: 自分が出場しているブロックへの投票はしないでください! また、精鋭当て部門のために、自分がどの作品を書いたかを言わないようにしてください! 敗退時もじっとしていてください。
- 締め切りは原則23時だが、1時間ほど作業のため猶予期間を設ける。その間に投稿したものは「遅刻者」として、-3点のペナルティを与える。
- 文体シャッフルにおける「目利き部門」の亜種として、一回戦時点で1位から3位を予想する「予想屋部門」、決勝時点で決勝グループの参加者を予想する「精鋭目利き部門」の二つを用意する予定。
- 他基本的なレギュレーションは700字文体シャッフルに準拠、開始時点で改めて明記します。今一番強い「700字書き」、決めようか。
Q and A
Q.採点は誰がやるの?
A.特定の審査員とかは設けません。参加者に自分のグループ以外を採点してもらったり、非参加者に採点してもらう形になると思います。
Q.参加して期間中に作品出せなかったらどうしよう……。
A.出せなかった場合敗退扱いにするので問題ありません! とりあえず参加してみよう!
Q.グループ分けトーナメントって?
A.例えば参加者が20人いた場合、5人のブロックを4つ作り、得点上位の1〜3位のみが勝ち残る、これを繰り返す、みたいな感じのトーナメントにする予定です。人数によって採用ルールとかは変えるので、ここは正式に決定した場合のみ発表します。
Q.お題は誰が決めんの? お前出るならお前有利すぎねぇ?
A.事前にお題を60個選定しておいて、そこからランダムで決めます。俺は出ます。
Q.お題発表から執筆までどんくらいの猶予?
A.普段の文体シャッフルと同程度の3〜4日です。そこから読む側も3日程度。
Q.なにに投票したか言ってもいい?
A.コンテストのUV言うのと変わらないしいいですよ。
Q.面白い作品が一作品しかないから2位以下投票したくない! いい?
A.事前に2位以下に投票しない(面白くない)理由をDMしてくれれば許可します。無許可で部分的に空票した場合はDMしに行きます。
テーマ: 港
Aブロック
答えのない問いを考えるのは嫌いだ。
貴方が事あるごとに呟いていた言葉。貴方の持つ天秤は、常に水平であることを求められていたから。私たちと自国、どちらに傾倒することも許されなかったのです。
汽笛の鳴らない海は、ひどく静かです。かつては貿易船の行き交う光景が日常だったと貴方は語っていましたが、戦火に包まれた今では見る影もありません。私たちは取り戻せませんでした。
きらきらと照り返す海上を、滑るように私は移動します。どこまでも続く水平線、それに私たちは勝利を刻むことは出来なかった。
ここにも、貴方はいない。
母港に帰投し、掲示板に貼り付けた地図の一点にバッテンをつける。いつの間にか、地図は真っ黒に。昔ならば誰かがそれに驚きの言葉でも発していたのでしょうが、すっかりここも寂しくなりました。
本当に、貴方が戦場へと赴く必要があったのですか。絶望が仲間を飲み込んで、深い水底に沈んで、けれどそれを割り切って欲しかった。天秤は傾けるべきではなかったのです。
執務室に立ち入る。しっかりと手入れをしているから、ここだけがあの日の姿のまま。机上に置かれた書類と海図。紙にはMI作戦という文言。ミスはなかった。しかし、誤った。
写真立てを手に取る。
そこに写っているのは、在りし日の私たち。最初の思い出。
司令官さん、時折私は答えが永遠に見つからないことを願ってしまいます。海に揺蕩う軍服が、煤けた制帽が、貴方の終わりを示す羅針盤ではないと。
ですが。
私は必ず、貴方を見つけ出してみせます。貴方が帰るこの場所を守り続けます。
それが私の、秘書艦の役目ですから。
だから、また会えたその時は目一杯褒めて欲しい、なのです。
早朝、海岸沿いの鉄杭に腰を下ろし、コンビニの軽食を口にする。
用もないのに誘われるように海に来てしまうのは、内陸生まれの私にとってはもはや習性と呼べるようなものだった。
彼が蘊蓄のようにこの鉄杭をボラードと呼ぶことを私に教えるまでは、これに名前があることなんて意識すらしたことがなかった。
私は毎回「へぇ」と流していたけれど、綱が張ったボラードには近づいてはいけないよと、ピンと張った綱が切れたら怪我じゃすまないからと、海に来るたびに話すものだから。
ふぅ、と息を吐く。この話を思い出したのはこれで何度目だろうか。
劇的な仲違いは無かったと思う。ただ少し、食への頓着が、生まれの文化圏が、未知への探求心の程度がすれ違っていた。本当に少しずつ、価値観の違いが積み重なっていっただけ。たったそれだけで、私も彼も疲弊していった。
それがまるで、2人の間の糸が徐々に張り詰めていくように見えたから。
だから、手を放した。もうこれ以上糸が強張らないように。今よりも緊張した糸が切れて、周りを傷つけないように。
決定的な言葉を口にしたとき、彼は「そっか」と笑って、彼もまた同じ言葉を口にした。
こんな時ばかり気が合うんだなと、やけに客観的にそう思った。
それから、アパートの契約主の私がここに残って、彼はまた別の町に引っ越すことになって。
また別の港町に住むと言った彼に一言、「気を付けてね」とだけ言ったのが最後だった。
一通り追懐して、現実に浮上する。
どうやら、奥の港で漁船が発つらしい。
薄明の中、係留ロープが外されて大海原へと出港する小舟を、ボラードの上から動かずにただじっと見ていた。
その港は窮屈で、入り組んだ地形に漁船が犇いていた。海岸に続く水路には水門が作られ、高度経済成長期に増改築を繰り返したような複雑さが見て取れた。酷く寂れた町だった。
「どうしたんだい、こんな町に……何にもないよ」
近づいてきたのは歳を召した男だった。ただのしがない放浪者だよ、と俺は答えない。
「何をするにも不便なとこでねぇ……店も閉じっぱなしだ」
桟橋から足を投げ出して座っていた俺の視線の先にあるのもまた住宅だった。後ろには誰かのものと思われる釣竿が打ち捨てられている。
「無視しないでくれよ。貴方は冷たいな──家内がいたんだ」
老人は話し続ける。俺は老人を意識の外へ追いやる。水底は暗すぎてあらゆるやる気を喪失させてくる。ただ、頭上の空が映っているだけだった。
「ずっと2人で暮らしてきて……僕はずっと彼女に頼りきりだったことに気がついたんだ。僕は料理の仕方もなにも知らない。1人じゃなにもできない。こんなところに居たってね、僕は船の乗り方も釣りの仕方もならないんだ」
なにか使えるものはないかと、周囲を見渡す。入り組んだ港町じゃ、家に遮られて海は見えない。
「……辛い。会いたいなあ、彼女に」
──こういう人型実体の相手はしちゃいけないのがここでの鉄則だ。何のトリガーになって、ここを抜け出せなくなるかわからないから。
水門だ。俺はこの港で船の唯一の"出口"である水門を見据えて立ち上がる。ここに外れ落ちた時のことを思い出して、門を乗り越えてみることにした。振り返ると既に老人は消えていた。
俺には家内もいないし、元いた世界に大したものも残していない。
でも桟橋で1人項垂れていた、流浪の彼には無いものを持っている。
この海が異常だと知ったのは子供の頃親父にハワイへ連れられてからだった。ハワイの海は青色で、海底が見えるほどに透明で、俺達のように茶色くもなく、ドロドロでもなく、そして甘ったるくもなかった。初めて食べた青い海水は咳込む程に塩っ辛くて、ゼリーに似た見た目のくせに!と喚いたもんだ。
俺達の島を囲む海水を外の奴らは"チョコレート"と呼んだ。外はこれが有限らしく俺達が船で運んで売っている。バケツで汲むだけで原価が0だから輸出する程に儲けられると教わった。恵まれた島だと思った。
海沿いを歩くと三人の子供が枝に刺したマシュマロを褐色の海に突っ込んでいた。この島ではよくある平和と希望の象徴だ。俺も昔はよくやったが、今では胃が受け付けない。
「あ、おっちゃん!おっちゃんもコレ食べる?」
「遠慮しとく。あと俺はまだ31だガキ」
「31はおっさんだろ」
「殺すぞ!」
子供達を追うフリをする。逃亡する笑声は背後からの汽笛に掻き消された。それはまるで俺に呼びかけるようだった。
チョコレートを"チョコ"に纏わせて輸出してると知ったのは成人してからだった。親父の手で二つに割られたチョコレートは半透明のビニールを覗かせていた。そん時の親父は眉を下げて笑ってて、よく分からない顔をしてたっけな。対する俺は……ビニールに反射した俺の顔は滲んでてどんな顔をしてたか覚えてない。ただ親父が差し出した右手に溶けたチョコレートが絡んで、握り返せなかった事だけは、
焦げた海は斜陽を取込みミルクチョコレートの魚が跳ねる。地面に落ちたマシュマロは船へと戻る俺の足に潰された。ごめんなガキ共、それは俺達にゃ甘すぎて食えたもんじゃねぇんだ。
港。
彼女との別れのとき。
赤色のテープを手元に束ね、その縁が切れるときをただ待っていた。
「赤色のテープだよ。ちゃんと覚えておいてね。」
そう可愛げに言っていた彼女が、今更になって憎らしい。
遠くへ離れてゆく船から伸びたテープの張り詰めていく感覚が手に伝わり、それが酷く心を切なくさせる。
あぁ本当に憎らしい。
苛々するような、悲しいような、そんな感情のパレード。
そのパレードの幕間で、彼女との思い出が次々と脳裏に浮かんでゆく。
「ねぇ、なんで。」
心から漏れ出た言葉が、テープの対岸にいる彼女へと語りかける。
海風に乗っても、彼女届くはずがない。
今、一体彼女はどんな表情をしているんだろうか。
真っ赤に染まった顔。
爽やかな微笑み。
君の顔にかつて見た、喜怒哀楽。
その全てが、今の君には通じないように思えた。
顔を上げて彼女の方を向こうとも、視界は気付かぬうちに流れた涙でぼやけてゆく。
やっとのことで安定した視界には、夕日とともに海原へと溶ける船が見えた。
「もう潮時か。」
その刹那、テープが波のように引き、そして自分の元へ返ってくる。
あぁ、この切れてしまったこのテープも、海へと溶けてゆくのだろう。
僕と彼女思い出も、海の深いところに溶けて、消え去って欲しい。
そう願っても、僕の心の港へと、その思い出は記憶の海流に流されて、簡単にまた戻ってきてしまうのだろう。
本当に本当に憎らしい。
もう君のことなど、忘れてしまいたい。
そんな思いと裏腹に、気づけば僕の手は必死に踠いて、テープを手繰り寄せていた。
無駄な足掻きだとわかっていた。
ただ……あのときの彼女の目。
僕は信じていたかった。
フェリーの自販機が網羅するラインナップは名物ドライブ・インのそれと概ね同じくらい充実している、というのが、運送業者である私の持論であった。特に唐揚げと焼きおにぎりのホットスナックがあるのが良い。缶にぎらぎらとチェッカリング加工してある安いチューハイの香料が長時間ドライブの疲労を忘れさせ、自販機内蔵のレンジで熱々に温められた軽食が胃の腑の中で蒸気を吐き、気分を落ち着かせた。
気まぐれにデッキに出ると、夜風が風呂上がりの肌を鋭く撫でた。まだ遠くに北海道の街明かりが点々と見える。どこの港町かと検索しようと取り出したスマートフォンは、既にここが電波の受信がかなわない場所にある事を示した。手慰みに口にした安酒は先程の華やかさをすっかり失い、夜風と同じ温度と酸味を空々しく表明した。
北海道での仕事ついでに久々に会った息子の事を思い出す。小さな喫茶店で会った彼は「何か食ったらどうだ」と言うと、さっき食事を済ませた、と言ったきりスマートフォンとコーヒーカップを交互に手に取るきりであった。既に私と同じくらいの高さになった背丈の目線は交わる事なく、窓の外には路上駐車のトラックが見え、喫茶店の黴臭い空調がごうごうと喧しく音を立てた。
船尾から緩やかにカーブを描いて伸びる航跡が見える。もはや先ほどまで居た港町と私を結ぶものは、描かれた端から海に溶けていく、その波紋だけであった。航跡を手繰るように、住むには不便な故郷の港町を想起する。思い出されるのはいつも曇りの寒々しい空と、薄汚い喫茶店と、窓から見える年季の入った自分のトラックだけだった。フェリーが短く汽笛を鳴らす。どこへも届かず闇へと溶けた。
Bブロック
ダウ船のタラップから、スーツを着た北京原人が談笑しながら降りてくる。保冷ボックスの中には新鮮なユーリプテルスとボトリオレピス。時間軸のねじれの中心に位置するこのパラドクス・ハーバーには、ありとあらゆる事象が流れ着く。そしてそれは、ハーバーきっての釣り師も同じであった。彼の名はジョン・レオポルド。彼の釣り具は特別性。質の良いアーケオプテリスのロッドは失われたものたちの澪標となり、はるばるシルクロードから流れてきたテグスが歴史の水底を掬い上げる。今日も彼はいつもの岸辺で水面に糸を垂らす。
「旦那、今日は釣れるかい」
アングロサクソンの青年が彼の横に座った。その手にはケブカサイの骨付き肉。ジョンが水面と向かい合ううちに、水平線の向こうはぼんやりと明るくなっていたようだ。もうそんな時間か、とぼやきながら彼は青年のほうを向き、空の魚籠を開けた。
「ボウズかい」
「あいつの仕業さ」
ジョンはそれだけ言って、また水面に向き直る。
「あいつ?」
青年が尋ねた瞬間、彼はおもむろにロッドを揺さぶった。大きな琥珀色の釣り針は黄金の軌跡を描く。見ておけ、と吐き捨てたその瞬間、ロッドが大きく捻じ曲がった。「アタリか」そう呟き、力強く腕をしならせる。水面からふと見えたのは、武者を思わせる強靭な頭部と、幽霊のような黒い靄。
「ダンクルオステウス。デボン紀の覇者かい」
「ああ、しかしその全貌に関しては驚くほどに未知だ。ゆえにあのような姿でここにたどり着き、存在を欲しているのだろう。ストランディングは不幸だったが、こういう輩は見つけ次第掬い上げる───それがここのルールだ。」
眼光がぎらめく。
銀河鉄道は走り続けている。
窓の外には夜空が広がっていて、そこには無数の星々が浮かんでいる。輝きの度合いこそ違えど、それらは確かに光っていた。そして、それを眺める一人の男がいた。男は煙草を咥えながら、窓の外をじっと見つめていた。
(いつまでこうしていられるのだろう)
息を吸うたびに、煙草の先端が赤く光る。灯った火が、静かに燃えている。男が吐き出した煙は天井へと上り、そして周りの空気へととけていった。男はこの様子を何百回と見てきている。
(ぼくも、いつかは消えるのだろうか)
男がここに来てから、長い時間が経った。途中で人と会うこともあったが、彼らは今はここにはいない。とっくの昔にここから去ってしまったのだ。彼らはここから去ることを楽しみにしていた。男はその気持ちが分からなかった。
ここでは食う必要も寝る必要もない。ただ時間に身を任せて過ごすことしかできない。でも、それも悪くないと男は思っている。星を眺めるのは案外楽しいし、煙草や酒などの嗜好品もある。新聞や写真集だってあるのだ。ここにいれば暇をすることはない。それに何より、静かに過ごすというのも悪くない。
(物事には必ずおわりがある。行き着く場所がある。だから、きっと──)
一抹の不安を抱えながら、男は過ごしている。それはいずれ来るであろう終わりへの恐怖かもしれないし、永遠の中で過ごすことになるかもしれないという懸念かもしれない。それは男自身も分かっていない。
それでも、男は待っている。自分の行き着く場所、すなわち──
(──ぼくの終着点も、どこかに)
窓に目を向ける。夜空に浮かぶ星々が、いっそう強く光っているように見えた。
銀河鉄道は、相も変わらず走り続けている。
「行ってしまうの?」
「仕方のないことだよ」
そう言って彼女は曖昧に微笑んだ。露出した色素の薄い肌色と真っ白なワンピースが夕焼け色の世界にくっきりと浮かんで見えて、さながら映画のワンシーンのように思えた。
「あたしは」
長い睫毛が瑠璃の瞳に影を差す。硝子のような半透明の声が汐の香りを浮かべた空気にゆっくりと熔けてゆく。波の音がやけに大きく聞こえた。
「あたしは、これから海の深く寂しいところまで行って、それから可惜夜の空に浮かぶ一等星になるの。そうしたらあなたにもきっと逢うことができるわ」
言葉は微かに熱を伴っていて、決して止めることができないのだと悟らせた。君が星になったとしたらその声も瞳も記憶から溢れていってしまうのだろう。そう思うとつめたい何かが喉に込み上げて哀しくなった。
「それでも、行かないで欲しかった」
声に涙が滲む。太陽の光が酷く眩しくて、彼女が最後どんな表情をしているのかはわからなかった。ただ一言、子供をあやすような優しい声で彼女は言葉を紡いだ。
「───もう、お別れの時間だから」
その言葉には優しさと同時に傷口にエタノールが沁みるような沈痛な響きがあった。涙で視界が歪み、コンクリートに擦れるような足音が遠ざかって行く。暫くして、出発を告げる汽笛が鳴った。
ふと目を上げて、白い船舶が水平線の向こうに消えていくまでをぼうっと見つめた。漸く藍に白が呑まれた頃に空を見上げると、満点の星空に瑠璃色の一等星が輝いていた。
生まれ育った港町が、どうにも好きになれなかった。迷信深い船乗りの男どもが、沢山出入りする癖にどれ一つとして女を載せてはくれない船が、嫌いだった。この街は井戸みたいに狭すぎる。出て行きたくて手を尽くしたけれど、それでもこの腕は外に伸ばすには短すぎた。
「空はこうも広いのに?」
暗い酒場の片隅で独り飲んでいた船乗りはそう尋ねた。故郷の冬が嫌いだったと聞いたからか、その眼に宿る星の色が気にかかったか。娘は気づけば鬱屈をその船乗りに零していた。
「空なら海からでも見える」
「道理だ。ならば漕ぎだす他あるまい」
「女を乗せてくれる船なんてこの街にはないよ」
船乗りは暗がりの中でこちらを見て、少し笑った。
「明日、早朝。波止場の北に来るといい。面白いものを見せてあげよう」
酒代には多すぎる金を置いて船乗りは去った。残された酒場の娘は考える。あれは堅気ではない、破落戸や略奪者の類だ。巷を騒がせる海賊の怖ろしい噂は自分も耳にしている。行っても破滅するのが落ちだろう。
「やあ。来たんだね」
それでも、気づけば波止場の北端に自分はいた。そして、そいつは自前の小さな帆船の舳先に腰かけて、潮風に痛んだ長い黒髪を風に遊ばせていた。軽く羽織った男物のコートが翻って、金のボタンが朝日に輝く。あんた女だったの、という呟きに船乗りは片眼を瞑って是とした。
「さて、乗れる船がここにある訳だが。漕ぎだしてみるかい?」
遠く見上げていた星が目の前にある。そう思った時には、船乗りの手を取っていた。
旅が始まってみれば、船の上は街よりも狭かった。腕の中は猶更だ。
それでもよかった。
井戸の中の蛙は、檻を自分で選べるならそれでよかったのだ。
港の角で潮が澱んでいる。私はそれを見つめている。
万物は流転する、と述べた学者がいた。すべてのモノは流れ、押され、ここではないどこかへと去っていく。話の流れ、情報の流れ、人の流れ、それらは時代が進むにつれて加速することはあれど、決して止まることはない。死んだ人間が再び蘇ることはない。水は高い所には流れない。
船の汽笛が遠くから聞こえる。音からして大型の客船だろう。自分で決意したにせよ、成り行きで決まったにせよ、客船に乗る人もまた、ここではないどこかへと流れていくのだ。
それで、この角だ。全く流れていない。止まっている。賞味期限が一ヶ月前のプラ容器がぼかりと浮かんでいる。
流れのない空間は、ただ劣化していくのみである。流れ続ける全てに疲れ、自分が流れに飲まれることを拒絶すれば、自分の中の世界はどんどんと新鮮さを失い、いずれは全てから置き去りにされてしまうだろう。
一度は流れを拒絶した私は再び流れに飲まれることを選べるだろうか。新鮮な世界へと戻れるだろうか。それとも、澱んだ世界の中で酸素を使い果たし、誰にも知られずこのまま窒息していくのだろうか。
港の角で潮が澱んでいる。そこに一匹だけ居た魚と、今偶然目が合った。
早朝の空気は刺すように冷たくて、僅かに露出した顔面の皮膚がちりっと痛んだ。潮の香りがする。海はきっと近い。ずいぶん長く歩いた。
拓馬は一息ついて、くたびれたスニーカーを脱いだ。そこにあったコンクリの階段に腰を下ろし、足の裏を揉む。
何となく、外に出たいと思ったのだ。
この頃、悶々と考えながら過ごすことが多かった。何の解決策も出てきはしないが、吐き出してしまわないと頭が破裂してしまいそうで、それで、早朝に家を出たのだ。
ネックウォーマーを引っ張り上げ、少しばかり目を瞑る。過去も、未来のことも考えたくなかった。ただぼんやりと、今ここにいるという感覚を味わいたかった。
皮膚を刺す寒さと、潮の香り。座るには硬いコンクリの感触。少し痛む足の裏。遠くに聞こえる、車の走る音。
車はきっと、この先にある港町へ行く。拓馬は名前しか知らない、けれど大きな港町へ。
もう帰ろう、と、思った。知らない港町を、知らないままにしておきたかった。テレビやネットで知る、切り取られた情報だけで知ったつもりになっておきたい。鼻から勢いよく空気を吸い、冷たくて吃驚して、少し涙目になって瞼を開く。
「あ」
眩いオレンジを視界の端に捉えて、拓馬はしぱしぱと瞬きをした。ほんの少し目を閉じていた隙に、どうやら日は昇ってしまったらしい。
くそ、と、拓馬は小さく呟いた。
「くそ」
もう一度呟いてから、立ち上がる。
やはり港町まで歩いてしまおう。あの太陽が僕を笑うんだ。ちっぽけな地球のことは全部お見通しだと言わんばかりに僕を笑っている。嘘つけ。僕の方がお前より近くでものを見れるんだ。
拓馬はスニーカーを履きなおし、一旦コンクリの感触に別れを告げることにした。
Cブロック
「……今年も来たんだ」
港というより船着場と呼ぶのが相応しいこの場所で、俺は彼女と一年ぶりに再会した。青く凪いだ海に、夏のセーラーがよく映える。皮肉な事に。
かつて、彼女は海神の贄となった。時代錯誤で非論理的な、この離島の風習によって。
小賢しい島民共は皆言う。あれは悲しい事故だった、と。……嵐の日。島外からの下校の際、『不運にも』ボートが転覆し、『偶然』、彼女の救命胴衣に不備があった。そして、『偶々』別の船が通りがかり、彼女以外は助かったそうだ。馬鹿げている。
「アタシらが付き合ってたの、この島で同い年の男女がアタシらだけだったからだし。……アンタもさ、島の外でイイ人と沢山会ってきたんでしょ?もう死人の事はキッパリ忘れなさいよ」
彼女の骸は海底に沈み、魂はこの島に囚われる事となった。この港に建つ無骨な石造りの灯台が、文字通り、彼女をこの島に幽閉する要石。向こう百年はこのままだとか。
「……そうだね。俺も、そろそろ自由の身になろうと思う」
毎年繰り返してきた彼女との問答。今年、俺は初めて彼女に肯定した。彼女は一瞬、驚愕と悲嘆が綯交ぜになった目を此方に向けたが、すぐにそれを瞼で覆った。
「うん、やっと分かってくれたのね。遅過ぎよ、バカ」
「でもさ、俺だけが自由になるってのは不公平だろ。だから、最後にこの光景を君に見せたい」
彼女の濡れた目に、俺は小さな機械を映す。そして、俺は赤いボタンに触れる。
──BOOM!
灯台が。島中の海神像が一斉に爆ぜた。島が揺れる。
不要になった危険物取扱免状を、波が出始めた海に放る。彼女の顔からは、もう涙が消え失せていた。良かった。しみったれた別れなんか、もう要らないから。
平和のために戦った人だったと父を評して皆が言う。父が稼いだ金のおかげで村の皆が生き延びてきたのだから異議はない。だからこそ、父を殺してのうのうと生きている連中がいることは許せなかった。
父は族長だった。だから、船を棺にして港から送るのも当然だ。族長とは戦士だ。戦士の仇は戦士として生まれた息子が討つのが当然だ。だから俺は船に乗る。父を水底に送り出したこの港から。
旅に出て、俺は父の率いる一団が何をしたのか知った。村の金庫を満たすために、近隣の村々を襲って奴隷狩りをしたのだという。同じ戦士として誇らしいと思った。だからこそ、正々堂々の決闘の末に捕虜の身となった俺がみすぼらしかった。
「ラースの息子が仇討ちだとよ」
「弱いな。あの鬼畜生とは比べモンにならねえ」
父の仇はそう嘲笑い、俺を奴隷にした。およそ人間が思いつく、あらゆる蹂躙をこの身に受けた。戦士階級の出、それも鬼畜のラースの子だと知られた以上、味方はどこにもいなかった。
血反吐を代価に自分を買い戻した。十数年かかったけれど、それでも俺は自由になった。自由になるまでに、誰かを傷付けると誰かが苦しむのだと知った。傷付けたのは父で、苦しんだのは俺だった。
身をもって思い知っている。父は”のうのうと生きている”側だったということを。そのおこぼれに与っていた俺も、のうのうと生きている側だったのだと。
俺はそれが悪だとは思わない。弱いから食われるのだ。食われた俺は弱いのだ。だから、俺がヴァルハラに行くことは許されないだろう。魂は父と同じ場所には行けない。それでも父と俺は戦士だ。せめて肉体だけは水底で眠りたい。
港から漕ぎ出して、俺は海へと身を投げる。
「意外。怖いんだ、海に出るのが。」
いつの間にか目の前に居た金髪の女は、そう馴れ馴れしく話しかけてきた。歳は恐らく十代後半、短いスカートから伸びる生脚に自然と目線が引き寄せられる。
港町の酒場。それもここは特に治安が悪い。船乗り崩れ共がそこらに陣取る中、娼婦でも無さそうなこの女はまさに異様だった。
「私の事、忘れたの?」
飲み過ぎたか。朦朧しながらも記憶を探ると、ふと思い出せた顔があった。
「あぁ、いつものか。」
「あんたたちって、もっと好き勝手に生きてるもんだと思ってたけど。しかも貴方は船長なんでしょ。」
少し話すか。グラスにビールを注ぎ足す。
「他に出来る仕事が無かっただけだ。いつ死ぬか分からない中、毎日隣で寝てる奴の悪臭に耐えつつ、力仕事を繰り返す。それが航海だ。皆、仕方なくやってんだ。」
「じゃあ、私を弄んで殺したのも仕方なく?」
数ヵ月前、襲った商船にその女は居た。船長の立場としては、船員共の溜まった鬱憤を晴らしてくれて大助かりだったのをよく覚えている。
「……いや、違うな。俺が好きに生きたいから、お前を殺した。」
本当は女にも金にもあまり興味は無い。でも、酒に酔ってこいつらが見えた時は、こう言うようにしている。こいつらの鬱憤のぶつけ先も、必要なのだから。
「……だよね、許さない。呪ってやるから。」
「あぁ、そうしとけ。」
こいつらを相手にすると、不思議と海に出る前に港で最後にやるべき心の準備が完了する。そうだ、自分は海賊なのだ。怖がる資格すら無い海の無法者。それを思い出させてくれる。
明日は出港だ。もう恐れは無い。
8月16日、テトラポッドの上で金糸雀色がきらきらと靡いていた。
「ダメじゃないか、君。盆過ぎに海に来るなって、お父さんに教わらなかった?」
テトラに浅く腰掛け、ぱたぱたと脚を揺らす金髪の彼女。それを防波堤から眺めていた僕に気付いて振り向き、呆れたような声で軽く咎めた。
「でも友達はみんな遠出してるし、父さんはいつも通り仕事だよ。他に行くところもなくて暇なんだ。それに君だって、ここに居るじゃないか」
逆光で顔は良く見えないが、僕より幾つか年上に見える。口を尖らせた僕に"私はいいの"と幼稚な返事を寄越してきた。
「今どきの子なら、ケータイがあればどうとでもなるだろうに」
「スマホなんて飽きちゃったよ、それより遊びに行きたいんだ」
「ふうん、それは良いことだ。……どれ、私が付き合ってあげよう」
感心したようにうんうんと頷いた彼女が、ひょいと身軽に立ち上がる。空に溶け込むような青のシアーシャツが、めいっぱいに潮風を取り込んだ。
「お姉さんが遊んでくれるの?」
「んー……釣り竿のひとつでもあったら良かったんだけど。まあ、イソガニぐらいは捕まえられるさ。ほら、こっちにおいで」
彼女は僕のほうに手を差し出す。流れてきた雲がにわかに陽を翳らせ、彼女の瞳と初めて目が合った。僕は防波堤から彼女の居るテトラにひょいと飛び移る。
「うぁっ、フナムシ──」
着地したところへぞろりと這い出てきたそれに驚き、足が縺れる。ビーチサンダルの磨り減った靴底が空を仰いだ。
ごつ、鈍い痛みが後頭部に滲み、ぐわんと視界が歪む。
「ま、大人のいう事は聞くものだよ」
彼女が僕を覗き込み、何か言っている気がする。僕を見下ろす瞳は、海より深い藍色をしていた。
──まだ見ぬ港が、俺を待っている。
そんなことをほざいて、彼は海の向こうに旅立ってしまった。昨日の口づけと精いっぱいした背伸びは、あなたを止める理由にはならなかったらしい。
恋敵は強大だ。なにせ水平線の彼方まで広がっている。あなたは私のことを何も知らないまま、果てなき海を股にかけている。
「だから私はあなたが嫌い」
声に出してみたものの、海は言葉を返さないし、あなたを帰さない。無情さは時に波に似るが、そのものが無情なのは違う。
ほら、私にあるのはこんな、人並み程度の我儘だけ。彼からすれば、若く、どこにでもいる、さぞかし退屈なひとだったのだろう。──あなたの手を切り落とし、二度と舵を取らせないほどの苛烈さがあったらよかったの? できもしないことを考えて、水平線の奥を見つめている。
そんな私にも出来る唯一の抵抗は、毎日この港に足を運ぶこと。坂道をくだり、海の男どもをあしらって、波止場に座り海を見る。
嵐の日だろうと、炎天下だろうと、大嫌いな海を見るために、私は朝一番に家を出ている。苦しいと思ったことはない。むしろ、あなたもどこかで浴びているだろう日差しを、嵐を、私も浴びているのだと思えば、最初は楽しさすらあった。……まあ、毎年通っているうちに、流石に慣れてしまったけれど。
遠くからやってくる帆船を見る。私は立ち上がらない。この港で待ち続けた私は、その船がただの漁船だと覚えている。落胆と退屈に、私は一つ欠伸をして立ち上がる。朝食を作らなくては。あなたが帰って来る前に餓死なんて、冗談にもならない。明日も、来年も、数十年後でも、私はここに居なくちゃいけないのだから。
──見知った港で、私は待っている。
台座には光り輝く剣が刺さっている。剣の柄に手をかけると、勇者の脳内に声が響いた。
『私の眠りを妨げる者は誰だ』
勇者は驚かなかった。この剣は意志を持ち、持ち主を選ぶ事を知っていたからだ。
「勇者と呼ばれている者です。大魔王を倒すために海無剣……いえ、埼玉剣の力が必要なんです」
『ならば力を貸すに値する者か試させてもらおう。私を怒らせれば勇者と言えども命は無いと思え。それでも構わないか?』
「はいっ!」
『お主の地元には海があるか?』
「ありますね」
しばし無言。埼玉剣の輝きは色褪せ、今にも消え去りそうだ。勇者は焦ったように聖剣に話しかけた。
「でもほら埼玉って海は無くてもいい所ですよね。俺関東住みなんで結構行くんですよ」
埼玉剣は少し輝きを取り戻した。
『どこに行くんだ?』
「ライブでスーパーアリーナとか度々行ってました」
『ほう、ほう。他の場所は?』
「後は、越谷レイクタウンに何度かショッピングに」
『いい心がけだ。あそこは全長1kmもあるから疲れるであろう』
「まあそこはほら、勇者なんで余裕ですよ」
ははは、と笑いが漏れる。埼玉剣は眩いばかりの輝きを取り戻している。
『ところでお主、出身はどの都道府県だ?』
「横浜生まれの横浜育ちです。まあ横浜ってよくお洒落な港町って言われますけどずっと住んでるとそれが当たり前って言うか」
勇者は死に、世界は闇に包まれた。
埼玉剣も魔物に奪われ、神戸大魔王に献上されるが、それはまた別のお話……。
Dブロック
拝啓 ████さまへ
貴方の手紙を読んで、私は貴方が旅に出ようとしていることを知りました。だから、私もそうすることにしようと思います。
貴方こそ、私が育ったこの港を作ってくださった巨人のうちの一人でした。貴方はあまりにも大きかったので、私が貴方の存在に気づくまでに、暫くの時間がかかったことを覚えています。
この港も、大きくなりました。往来する船は増え、いつの間に往来から諍いは消え、町並みも綺麗になりました。
港のみならず、貴方の作る船はどれも美しいものでした。帆に風をたたえ、波間を切り裂くその姿に、私はどうしようもなく憧れたのを覚えています。
私は憧れに突き動かされるままに走りました。船を何艘も作り、大海へと送り出していくうちに、貴方が私に眼差しを向けていることに気づいたのです。少しの気恥ずかしさとともに、なにか報われたような気になったものです。
私が貴方と同じ場に辿り着いたとき、きっと貴方はもう旅に出ることを決めていたのではないのでしょうか。多くは語らぬ貴方が旅立ちの手紙をよこしてきたとき、私はひどく驚いたとともに、納得もしてしまったのです。
この港のいたるところに、貴方の影があります。この港を往来する人々の心のなかに、貴方は居ります。しかし、これからこの港にやってくる人々は、貴方のことなど知らぬのでしょう。古きものは去りゆく定めとはいえ、私はどうしようもなく寂しいのです。
次の船を送り出したら、私も暫くの間は旅をしようかと思います。貴方は私に眼差しを向けてくださいました。だから、私は旅に出た貴方を見つけに参ります。それが、貴方の為した大義に報いる唯一の方法だからです。
敬具
████
「おぉ与太郎、帰ったか。堺の方に釣りへ行ったそうじゃないか。どうだ、チヌやらタチウオやら……旨い魚は釣れたかい。」
「へえ旦那、それがもう、大変なんでございますよ……」
「ちょっと、そこの釣人さん」
「なんだ、すまんがやれる魚は無いよ。今日は全然調子が駄目だ。」
「なら丁度良い、サカナがよく喰いつく餌があります」
「なに、それは……って何だ、坊さんかい。冷やかしなら帰っておくれ。」
「私は昔から堺に住んでいる、どの魚にどの餌か、これは全部頭にあるのです」
「ほう、それは失礼。どれ、その餌とやらをくれないか。」
「勿論、3粒20文です」
「なんだ、金を取るのかい。それに、餌にしちゃちょいと高くないか?」
「若旦那、良い餌ってのはそれだけ価値があるのですよ」
「はあ、仕方ない、3粒おくれ。」
「どうです、釣れるでしょう」
「いや、駄目だね。うんともすんともだ。本当に釣れるのかい?」
「若旦那、”おだやかなることを学べ”、 エゲレスの随筆家の言葉です、釣りとは根気よく粘るものです、さて、餌は3粒20文です」
「むう、仕方ない、今度は6粒おくれ。」
「まいどあり、さて、釣れると良いですねぇ」
「ううむ、まったくだ。」
「……そんなわけで坊さんから餌を、併せて15粒ほど買ったのですが……魚はおろか、坊さんの姿も最後は見失っちまいまして。」
「大馬鹿野郎!そいつは狐だ!」
「はあ、狐でございますか。」
「呑気な観光客を狙ったに違ぇねぇ。ったく、話を聞くに、えらく釣り上手な狐だ!」
「いえ旦那、アイツは釣りが下手です。」
「それはどうして、100文も取られたのにか?」
「私の前に現れた時、アイツはボウズでした。」
ここはどこにも行けない港町と言われてきた。数年前から海に出ようとするとデッケえ化物が顔を出して船を沈める。海に飛び出す船はなくなり、大人は挑戦を青臭いと嗤うようになった。
「ご主人様も奥様もお亡くなりに…」
「家を坊ちゃんが継ぐ?まだ12なのに」
「夜逃げするにも海坊主が…私達はここで腐りゆく運命か」
地主の1人息子の俺はリアリスト気取り共から逃げるように、パパとママの秘蔵格納庫に引きこもった。どこにも行けねえ俺を笑い飛ばしたのは、埃被った木造船。
「サミー、久々だ。行先決めるより先ず進むぜ!」
パパの名前を呼び喋る相棒に事情を話し航海術を教わった。俺が相棒を水面に浮かべると噂を聞いた野次馬が、バカにしたり既に失敗したみたいに同情してきた。
「こういう出港の時は膝抱えて引きこもらねえ。ベロ出して中指立ててやれ!」
前のめりな出港、無謀なのは分かってる。現れた化物が船体にぶつかり、天候は最悪になる。
「クソガ…船長!流石にやべえ!」
「うっせえ海の上這ってでも出港るぞ!」
「物理的にムリだろ!」
なんで無謀なことをする?家柄から逃げたかった?
「…それもあるかも」
バカにした奴らにザマアミロを言うため?
「そうかもな」
両親にいい所見せるためか?
「おいポンコツ!パパと航海してきたのに分かんねえのか!」
「…フッ、分からんね!デケえ声で叫べクソガキ!」
「自分信じて選んだ航路を!後悔を追い抜いていく旅を!」
時代遅れでポンコツの相棒と一緒に。
「どんな邪魔も笑い飛ばして、どこまでも遠くに行きてえからだよ!!」
相棒が勢い良く突進する。化物のどてっ腹に大穴が開いた。
そうして港が開かれて、数年ぶりの快晴の中、1隻と1人は進む。
間違いない、この左脚は、あたしが刺青を施した。
漁に出た恋人が船から落ちた。救助の手は尽くされたが、72時間経って漁港に上がってきたものは左脚の膝から下だけだった。靴や靴下を取り払えば、踵には鮮やかな青薔薇の刺青が見える。およそ人間らしい色彩を失った肌に、嫌味なほど紺碧の薔薇が咲いている。これは恋人にねだられて、あたしがタダで入れた模様だ。万が一、海で帰らぬ人となった時、身元が特定できるように。
「やーよ、冗談じゃないわ」
あたしはこう言って最初のおねだりを断ったが、今となれば最後に肌に触れたのはこの時だ。苦い後悔が膨れ上がって涙になった。警察の前で言葉を失った、みじめったらしいあたしを、白い太陽だけが照りつける。
うってかわり、その日の夜は冷えた。吹き曝す風とざんざ降りの雨。一睡もできないあたしの耳を穿つ。この喪失をどうしよう、と、また泣きそうになった。
その時だった。雨音の中に、窓を叩く音が聞こえた。硝子を控えめにつつく音。なに、だあれ、と音のする窓の前に立つと、人影がある。自暴自棄のあたしは、もう窓の前に立つ人間が誰でも良かった。窓を開くと—
「絶対に声を出すな」
—恋人の顔があった。失ったはずの。
「亡霊?」
「お前を攫いにきたという点ではそうだがね」
いつもの減らず口。彼で間違いない。彼は「確認だ」と言いながら、鎖骨の下に入れた青薔薇の蕾の刺青をあたしに見せつけた。
「本物かも。でもあなた、脚が上がったのよ」
「それなんだがね—俺は、死んだことにしたほうが都合が良くなったんだ。その工作だよ、脚は。端的に言おう、追われている。一緒に、逃げてくれるか」
船は予定通りに到着してくれたが、あの人が降りてくるまでには時間がかかった。前の時とは違って、色々な検査や確認が必要になっていたのだ。これについては私が悪いので、仕方がないところはある。
「待っていてくれたの?」
待ち構えていた私にそう驚いたように言うあの人は、前に別れた時と同じ顔で、あの悲しそうな笑顔を向けた。
「ええ、五年と百六十八日」
私の言葉にあの人は少しだけ口を閉じ、軽く両目をつぶった。
「そう」
「それで、船を降りるの?それともまた私を置いて、仕事を続けるの?」
あの人にとって航海は数ヶ月に過ぎないし、私は産着に包まれていた幼子のままなのだろう。
「もう、諦めたほうがいいよ」
「今更?私はもう人生の大半を、あなたを待つために費やしているの」
信じられる大人だった。憧れた先生だった。頼れる先輩だった。そうして今では、同じぐらいの背丈になってしまっている。
「そういうつもりになれないよ。あの時の君の面影がちらついて、願いは聞けそうにない」
「なら、せめて船を降りてよ。もう色々と情勢は変わっているから」
あの人は、私がどれだけのことをして、今どのような立場に立っているのか、よく理解できていないだろう。
輸送に人間を使うことを問題視するような風潮を作った。人生の時計が狂ってしまった人の支えとなるべく奔走した。私が纏う記章つきの制服だって、生半可な苦労では手に入らないものだ。
「……ごめん、この仕事が好きなんだ」
「そう。なら行ってらっしゃい。ただ、次は逃げられないように全部準備をするから、最後だと思っておいて」
私は弱々しくそう言うのが精一杯だった。目頭に当てていた袖には染みが付いていた。
送り出した人は数知れぬ。迎えた人も数知れぬ。いつも同じ海の匂いを漂わせ、静かにそこで見届けた。変わるものといえば、往来する人々と船のボイラの音くらいのものだった。夜も更けた頃、静かに舫を解き、精鋭たちを載せた小型船が順繰りに沖堤防を出ていく。彼らが帰るのは日が中天に昇る頃だ。時に声を弾ませ、時に落胆した声を獲物とともに持ち帰る。大漁、大時化、ただいま、おかえり。そんな言葉が場を満たす。船々が留守にすると、穏やかな潮騒とともに、何処からともなく釣り人が糸を垂らしにくる。それが私の日々であった。
ある日を境に、その潮騒は質を変えた。釣り糸が垂れることは無くなった。夜更けの弾むようなボイラ音はどこかへ去った。その隙間を埋めるように、金属製のボイラ音が頻繁に出入りした。太く活気のある声が、あたり一帯を包んでいた。船は総じて大きくなり、時に声を弾ませながら、獲物の大きさを自慢した。時たま、けたたましい音と慌ただしい喧騒が響き渡る。直上、掃射、被弾、着底。そんな言葉が場に響く。船々が留守にすると、残された人々は沖を眺めて何かを願う。それも私の日々であった。
挨拶を聞いた。値切りを聞いた。歓声を聞いた。怒号を、砲声を、嗚咽を聞いた。そして、大量の歓喜を、労いを、安堵を、悲嘆を、罵声を聞いた。この地から勇ましく送り出した顔がやつれて帰る。帰らない。恥ずかしくも今戻りました。お帰りなさい。数多の応酬は、しかとこの身に染み込んだ。
送り出した人は数知れぬ。迎えた人も数知れぬ。しかしその数は合わない。
ここは船と人の拠り所。時代は変われど私は変わらず、あの頃と同じ海の匂いを漂わせ、帰るものの無事を願う。
Eブロック
「えーっと自転車なら、ぐるっと回って、えー…………っと、40分ですか」
自分は今自転車に跨って、対岸にある取引先にて行われる割と大きな商談に向かおうとしていた。あそこの橋を渡れば10分で着くだろう、そう思ってコーヒーブレイクなんて洒落込んでいた自分が心底憎い。実のところ高速道路の入り口だったそれを見て、何をするでもなくただただ立ち尽くす。
「急がば回れ……って、限度があるんだって」
「兄チャンはよ来ぃやー!もう出るでー!」
「はぁ…………なんて言おう?」
「兄チャンはよしてぇな!出る言うてるやろー!」
「……はぇ。え。ぼ、僕ですか?」
「あっち渡りたいんちゃうんかー?渡船出るでー!」
「ありがとうございます……本当に助かりました」
「何や兄チャンこっち来たばっかりなんかいな。いきなりこんなめんどくさいトコ持たされて大変やのぉ」
「ええ。まだまだ道もわからなくて……」
これぞ本当の渡りに船、か。正直、急な腹痛が発生した旨の連絡を入れようとしていた最中だった。焦りと後ろめたさを隠すようなバクバクという鼓動は嘘のように消え、街並みを見つめる余裕すら出てきていた。右も左も馬鹿デカい工場や倉庫が立ち並ぶ、いかにもな港湾地帯だ。
「兄チャンこの辺回んねんな?」
「はい。この辺りを受け持つことになるかと。まあ……初っ端からこのザマで、先が思い遣られるというか……」
「わからんことあったらその辺の奴に何でも聞いたらええねんから。頑張りや!」パンッ
痛いなあまったく。……賑やかでちょっぴり怖いおじさんと話しながら、今後自分の庭となっていくであろう土地とそこに暮らす人々をのんびりと眺める。渡る世間に鬼はない。気がする。
「次の港まで……どのくらいでしょうか」
「んなもんねーよ、お役人様」
船長は投げやりに言った。ここは霧の海域。音に聞こえし最後の未踏破海域。陸から西へ進み続けた先にある海域で、その先は黄金の都だという。
余りにも冒険に目が眩んでいた。税制改正に伴う同行担当官として船隊の誘いに二つ返事で乗った私は馬鹿だ。冒険?いいえ、私たちは現在、船長の集団自殺に付き合っています。
「いかれた磁場、風だって渦だ。どっちが北かわかるか?」
言われて気付く。北はどっちだ?そもそも、まともに航行できているのか?霧が深くてわからない。冷汗が流れる。
「ここは墓場だ。死ぬにはうってつけだな」
「どうしてそんな無謀な航海を!」
「全部無謀だったさ。無謀だったから税金が免除されたんだ」
再び、冷や汗。この船長、私を道連れにして税制改正へノーと言うつもりだ。
肩で息を吐く船長から底意地の悪い作為を感じた。
「老い先短いジジイと一緒で申し訳ねえな。ま、一番大事なのは若ぇ野郎どもの食い扶持だ。お前は俺たちとここで死ね」
馬鹿にしたような態度を受けて、このジジイと口から出た時には遅かった。
「私が死んでも変わりませんよ儲かってんですから!税なめんな馬鹿野郎!」
怒りに任せて、ロープを引っ掴む。とにかく、こんな勘違いジジイと心中は嫌だった。
「私は貴方に憧れて来たんです。それがこのザマとかありえない!無駄死にしてたまるか!」
「じゃあ飢えろってか!?」
「船籍変えろって言ってるんです!まだ船とその貨物にしか税金掛かってないんですから!」
ジジイ、ハッとした表情。ならばと船長の目の色が変わる。
「……港、目指すぞ」
「西へ?東へ?」
「無論東だ馬鹿野郎!」
タラップが波止場を離れる。そこには新天地への期待も故郷への郷愁も無い。それを見て私は急に足元の甲板が途轍もなく不安定なものであるように感じ、潮風に少し錆びついた手摺りを手繰り寄せた。船の汽笛に合わせ、頬を磯の香りが抜けていく。陸を離れた世界は、培ってきた五感を根底から覆してしまいそうだ。手にじっとりとした嫌悪感を感じ、やっということを聞くようになった足を船室へ向ける。歩きながら、汗と錆の香りと色とが混ざり合った利き手を握り込んだ。
港は迎え入れ、そして送り出す。そこには希望があって、安堵がある。少なくとも、私が波止場で待っている時に目に映った顔は、皆そういう顔をしていた。私はどうだろうか。そういった顔を、彼女に見せて手を触れていたのだろうか。そこまで書いて、船の揺れに日誌を付ける手が止まる。ペンは転がり、手の甲に黒い線をつけた。この手は汚れるのが好きなようだ。いつ帰れるかも分からぬ旅だ。不甲斐ない物書きの手が、皮を厚くし再び彼女の手を取るか、それとも錆びつき動かなくなるのかはこの海の先で分かるだろう。しかし、今はそんな事を考える自分が酷く恥ずかしかった。
「良かったのですか、お嬢様。彼の方を送り出してしまって。」
黒い影すらも映らなくなった水平線を未だ見つめ続ける令嬢に従者は問う。
「……ええ。」
彼女は振り向き、続けた。
「これは、私とあの人との賭けのような物です。私達が初めて出会ったこの場所に、彼がどんな形であれ、帰ってきてくださるか否か。」
彼女は、また水平線の方を向いた。夕暮れの逆光で、その横顔は上手く見えない。ただ、膝の上でいつもより強く握られていた手の甲に、一雫だけ涙が落ちた。
ガキの頃、ボトルメールを作ったことがあった。
手紙の内容は変わり映えしない日常への愚痴。ビール瓶に小石で蓋をしてラップで巻いただけの代物だった。浮かぶかどうかも分からない不格好な舟だったが、琥珀色のガラスを覗き込むと知らない土地の風景が見える気がした。
その日の深夜、誰にも気付かれないように家を抜け出して、島にたったひとつの港へ走った。そこが旅の始まりに最もふさわしい場所だと思ったからだ。係留された漁船が居並ぶ桟橋から、助走をつけて思いっきりボトルを投げ込んだ。暗闇の先で響いた微かな水音に胸が躍った。
浜辺に打ち上げられたビール瓶を見つけたのは翌日のことだった。
茶色い瓶は眩しい太陽に照らされて、難破船のように砂と藻にまみれて転がっていた。中身を確かめる気にはならなかった。
漁師になってから、この辺りの潮の流れを学んだ。島から海へ投げ込まれたものは、大半が風と波に運ばれてそのまま戻ってくる。浮かぼうが沈もうが関係ない。波に揉まれて漂うだけの瓶が大海に出られる可能性は、とても低い。
手元の容器に目を向ける。
コルクで密閉された真新しいガラス瓶。傷一つない透明な瓶の中には、薄桃色のリボンで括られた便箋が入っている。朝方、船の近くに浮かんでいたのを拾った。汚損の具合を見るに、流されてからそれほど時間は経っていないだろう。
エンジンを止める。甲板へ出ると、吹き曝しの強風が頬を叩いた。沖合の潮風はひどく冷たい。
見渡す限り空と海が広がる紺碧の世界に、手にしたボトルメールをふわりと投げ落とす。飛沫が舞う。ボトルはゆらゆらと波間を漂い、やがて光に紛れて見えなくなった。
この舟は、きっとどこかに辿り着く。
「旅立つ君に、祝福と知識をあげる」
出航前、最後のあいさつにと彼女は鍵の掛かった箱を渡してきた。
「祝福はこの箱。ただのブリキの箱だなんて思っちゃだめ。毎日必ず拭いてあげて。この子は色んな不幸を、少し軽くしてくれる。そして、あなたが受けるはずだった不幸は周りに少しずつ降りかかる。と言っても隣の部屋の人が小指をぶつけやすくなったり、誰かがトイレに行くと紙が無かったりするくらい」
「知識はこの箱の中にある。呪いを受けた時、鍵を壊して読みなさい」
航海が始まって数日。
近くの船員が静電気をくらった日は、食事中に落としかけたフォークを空中で拾えた。隣人が手すりのささくれに刺された日は、割りばしが綺麗に割れた。同僚の靴紐が切れた日は、昼食の牛レバーに臭みがなかった。
この箱の働きは随分とささやかなものだったけれど、それがなんだか愛くるしい。毎朝欠かさず眼鏡を拭くほど上等な布で拭き、部屋の一番良いところにおいてやった。
朝からバタバタとして箱を拭く暇がない日があった。その日は結局倒れるように眠り、箱を拭かなかった。それから数日後、船の中で病気が流行った。これは呪いだ。箱を拭かなかった呪い。ばたりばたりと倒れていく船員を横目に、泣きながら鍵を壊した。中には手紙。すぐに便箋を破る。
「呪いはありません。呪いとは、歪んだ因果推定です。今、祝福は解けました。祝福とは、歪めた因果推定です。理性で問題に対処なさい」
それから病人の観察に努めた。彼らはみな、牛レバーをたいそう嫌って他人に渡していた。後にその病は脚気と名付けられた。
今、ブリキの箱は少し歪み、鍵も壊れている。されど、毎朝上等な布で拭いている。
港町の窓ガラスは、いつも潮風で白く濁っている。だからわたしが寝起きに窓から覗く景色は、トレーシングペーパーを乗せたみたいに、ほんの少しだけ色が淡かった。遠くの山も、青天井も、桜もスズメも、電柱も。
対して、東京の窓ガラスはびっくりするくらい綺麗だ。塩の結晶のざらざらしたのは付いていなくて、降り注ぐ太陽の光をきらりと鋭く反射する。道ゆく人々の姿を透き通しながら、ぴかぴか輝くレフ板だ。
東京の空気は、港町みたいになまぐさくはない。潮風で髪がベタベタになったりもしないし、牡蠣をひたすら剥き続けたり発泡スチロールに氷を詰めたりするアルバイトだってない。綺麗な海もない。鮮やかで美しい空の青だけが、彩度の低い街並みに色を差している。
ところで今、わたしは困っている。東京の路線図って、どうしてこんなにぐちゃぐちゃに絡まっているのだろう。駅のホームが二本以上あるなんて聞いていないし、出口だってどうしていくつもあるの。完全に迷子になってしまった。潮風で髪がベタつく故郷が嫌で飛び出してきたのに、既にあそこが恋しくて仕方がない。ごめんなさいお母さん、わたしここでやっていけそうにないです。
ポケットに潜んでいるディンプルキーをくるくる回しながら、わたし自身もぐるぐる回ってみる。トレーシングペーパーみたいなチュールの乗ったスカートをひるがえしながら、わたしは歩き出す。ほんの少し色を淡く染めた髪を結い直す。東京の街がわたしの前に立ちはだかる。お母さんがくれた飴玉を口に放り込んで、わたしは海より広い東京の街をずんずん進んでゆくのだった。
Fブロック
「なあ、お前はこの世界で1番派手なものって何か知ってるか?」
座り心地の悪く、ベルトの多い席に座った途端、こいつはそんな事を呟き始める。
「なんだよ、このクソ大事な時に」
宇宙港。政府の宇宙観光推進事業への莫大な投資が実り、世界一の発射場が建設された。超高倍率のチケットを手に入れ、その末席に我々はこうして座ってれているというわけだ。
「でも友人が最も派手だと思うことは知っておけばサプライズの時役に立つだろ?」
「仕掛けようとしてる本人に聞くアホが居るかよ」
「そういやそうだな」
船内用の水パックを開け、口に含む。不味い。
「んで、何が派手だと思う?あ、ロケット以外で頼むぜ」
こいつは懲りないのか、とも感じつつこれ以上否定するのもと思い、派手について考える。煌びやか、大きな音、スケールの大きさ。
「花火、とかどうだ?」
昔に比べれば廃れてしまったものの、今もそのスケールの大きさは健在なはずだ。幼い頃に見上げた綺麗な空。思い返せばこいつとはその頃からの付き合いだったか。
ただ、その男はその答えを聞いてベルトも装着せずに項垂れる。発射直前のベルが鳴る。
「あー、そうか。そうだよな。やっぱ、空は飛ばないとダメか」
「あ?何言ってんだ?」
「でももう決まっちまってんだよ、爆破は。ドでかく飛ばすって発想は無かったな。やっぱりそっちの方が派手になってくるか」
「だからなんだって──」
「俺にとっての派手は、こいつの爆破なんだよ」
そうして、私を乗せた花火は地上で咲いた。
1.0G状況下での高速離脱から爆炎が失われたのはつい数年前のことだ。2本向こうの線路を通過する貨物列車のような、特段面白いわけでもない数十秒程の滑走音と共に、間抜けな角度のまま地平の彼方へ投げ飛ばされる宇宙艦のケツが未だに気に食わなかった。
「野蛮だ。艦を星の外に投げ飛ばすなんてのは」
「液体燃料でバカスカやるよか上品だね」
推進剤は対抗の科学だ。重力や大気、ありとあらゆる障壁に対抗するための力。全長280kmのリニア式加速コースと地球の自転エネルギーを用いた艦艇投射には未だにそれを覚えない。佐世保表層発艦港という施設名はもはや形骸化して久しく、今の世間はもっぱらここを滑走港と呼び親しむ。その他大勢が努力するまでもなく受け入れた敗北は僕の中で未だ燻っている。
「勝ってる気がしないんだよ」
「重力に?」
「地球という構造物そのものに」
「地球は敵かい」
「敵だったろ」「別に」と応酬も束の間。6回目の警報音が鳴り響く。月面鎮圧艦隊最後の1隻が投射溝に収まったらしい。特段やることも無いから腕を組んで西空を見やる。どこかのジェットコースターを、一番面白くなる直前の箇所で突然ブツ切りしたような終端箇所が青く点滅している。
「敵だったよ。人類最後の。ブースターエンジンはこの星と戦うために燃えていたんだ」
「投射離脱法は逃げるための技術かもしれないね」
「だから嫌いなんだ」
「勝ってると思うんだけどなあ」
爆音。そこに閃光は存在しない。列島の全てを壊してしまうような地鳴りが僕たちの直下で巨大な8の字を描く。
28秒の後、駆逐艦イオージマはやはり間抜けな角度で宙を舞っていった。
鴎の声がする。目を開けると、障子が薄く藍に染まっていた。日は登っていないらしい。この頃はいくら疲れていようが、早朝に目が覚めてしまっていた。休みを貰い、小さな港町の宿で今朝を迎えたのだった。
宿の戸を開けると、春の朝の寒い空気が服の隙間を通り抜ける。風邪を引くまいと引き返そうとすると、漁港の橙灯が目に入った。空は青白くくすんだままだというのに、眼下の漁港は漁師で賑わっていた。
ふと、昨日会った老漁師の顔が浮かんで来た。「海ってのは、やっぱり人の手に負えるもんじゃないんです。」老漁師は言う。「こっちが昼を食べてようが、クソしてようがお構いなしに、グラアグラア揺れやがるんですわ。時には船がまるごとひっくり返されちまうことだってある。あんな上で一生を過ごすなんてね、本当は正気の沙汰じゃないんですよ。」
「ただねぇ」老漁師は続けた。「あっち暮らしが続くと、やっぱりどっかおかしくなるんでしょうね。陸酔いっちゅうやつですわ。揺れてないのは、頭では分かってるんですけどね。特に寝るときゃ酷いもんです。目を閉じるとね、地面がゆっくりゆっくり揺れやがるんです。ありゃ生殺しですよ。シケの海の方が落ち着くってもんだ。」
結局、あそこが一番落ち着くのだ。そう言って、老漁師は笑っていた。
彼らにとって、海は心地の良い揺籠なのだろう。揺すり手のいない籠の上で赤子がぐずるように、陸の上で彼らは孤独を感じているのだ。
今日もまた、漁師たちは海に繰り出し、波に揉まれ、その中にある安寧を慈しむのだろう。
いつの間にか空は黄色がかっていた。船が一台、もう一台と去ってゆく。残された私は、船の消えてゆく地平線をじっと見ていた。
汽笛が鳴り潮風が吹き抜ける度に心が躍った。船が地平線から町に向かってくる光景。海が波立ち人々が騒ぎ始める声が興奮となって駆け巡るあの感覚。
「港はもう一つの世界の入り口だ。伝説も宝も何でも船に乗ってやって来る」。近所の船乗りが自慢げに語るその言葉は幼い僕には果てしないロマンとして嚥下された。水夫服の男たちが大声で指示を出し、奇妙な品々が積み荷から降ろされる様。それは小さな体に収まらない程の好奇心を刺激し、無限の夢となり輝いて映った。
近所の船乗りは出会うと必ず航海の話をしてくれた。荒波に揉まれるも仲間と懸命に努力し異国の地へたどり着いた事、各地の宝の数々をこの港へと持ち帰り喝采を受けた事。船乗りはとても年を取っていたが、物語を語る彼は僕の中で英雄だった。
ある日、彼と共に出港した船が嵐に巻き込まれたとの急報が町に入った。何日も泣き塞ぎこんだが、港で葬式を挙げることが決まった時には落ち着き涙も枯れていた。
段々と世界が狭い事を知った。魔法のように見えた積み荷は、海外ではありふれた香辛料でそこに神秘は含まれていなかった。「あらゆるものが船に乗ってやって来る」。その言葉の主すらやって来ないのなら今は虚しく響くだけだ。
汽笛の音、肌を舐める風。憂鬱だが何んとなしに海を一瞥してしまった。
ありえない。そう思うも丘を全速力で下っていた。道中誰かが海の方を指差し叫んだが気にしない。
たどり着いた港の先で、僕は船から男が降りてくるのを見た。記憶より髪も髭も伸び放題。でも間違えようがない。
「何でも船に乗ってやって来るからな」
ボロボロの姿がかえってその言葉によく似合っていた。
その晩は急に嵐が来た。俺は見張り台に自分の体を縛り付け、揺れる船から投げ出されないように必死にしがみついていた。右手の望遠鏡は離さない。陸地の手掛かりはたとえ僅かな光であっても見逃す訳にはいかないからだ。
程なくして傾く甲板に水夫たちが出てきて、ロープを引いて帆を畳み始めた。一方の俺は皆が風を受ける帆と格闘する中、望遠鏡を覗いていた。するとどうだ。雨の向こうに立派な港が見えるじゃないか。身を乗り出して必死に叫ぶと甲板にいた一人が気づいて船内へとすっ飛んでいった。そして程なくして船長が現れ、こっちを見つめた。陸地の方を指さすと彼は頷き、甲板を見渡して号令を出した。
「取舵一杯!」
強風で三本あるマストの1本が半ばから折れ、一本からトップの帆が千切れて飛んで行った。操舵士と水夫の尽力によってそれでも船は嵐の中を陸地の方へと動き出した。
だがな、そのうち俺はおかしな事に気が付いた。港が近づいてこないんだ。船は全速力で走ってるのにだ。こりゃおかしいってんで甲板に降りると、そこには俺と同じように妙な顔をする船長がいた。
「船長」
船長は手にした望遠鏡を覗き込みながら言った。
「ありゃ俺の故郷だ。嵐にやられて捨てられた、ずっと昔に消えた街だ」
聞いてもう一度望遠鏡を覗いたが、その港はどこにも見えなかった。
「せ、船長」
「幽霊船ってのはよく聞くが、港にも幽霊があるとは思わねえわな」
しみじみと呟き、船長はニヤリと笑って大声を上げた。
「帆を張れ!全部だ!もうひと踏ん張り気張りやがれ!」
振り返ると大嵐は遠くで渦を巻いている。力強い風が俺たちの背中を押していた。
直線的な海岸線に、やはり定規で引かれた道路と区間。陸にはカラフルなコンテナが等間隔に積まれている。そして霧の奥から同じものを背に積んだ巨大な船、コンテナ船が出現した。
船から降ろされたコンテナはトラックに積まれ、また霧の中へと消えていく。中には湾岸の工場へ向かうものもある。
コンテナの中身は取り出され、あるいは加工され、コンテナに詰められ、船に積まれて霧に帰る。
人の意思など存在せず、経済と社会が一つの生物として体液を循環させている。目的はない。
この霧に包まれた港は一個の細胞に過ぎないのか。コンテナと一緒に船に乗り、霧を抜ければまた違う景色が見れるのか。
同じ事の繰り返し。日は登りまた落ちる。古びたものはやがて交換される。私もいずれ役に立たなくなり捨てられる。もはや霧の先に向かう機会はない。
窓の外を見る。子供の頃と同じ光景。霧深い港にコンテナが降ろされ、また積み込まれる。私が老人になっても同じ光景を見ているだろう。
霧の中から出た事はない。霧が晴れた事もない。もしかしたら、霧の外も無限に同じ港が続いているのではないか?ひょっとしたら、霧の海の先には世界はなく、海は滝となって落ちているのではないか?
滝という言葉は知っている。山という概念は知っている。ただ、現実味を感じない。私の世界は霧の中であり、港の中であり、窓が切り取る景色である。
思えば、私はあのコンテナの中に何が入っているかも知らない。湾岸の工場で何を作っているのかも知らない。霧の奥に何があるか、私が知る事はないだろう。
船が着き、コンテナを積み替え、船が行く。繰り返し、繰り返し、繰り返す……
ある日、霧が晴れた。
私は窓の外を見なかった。
テーマ: コンテスト
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「貴方、ズルしましたよね」
ここで結果が出なきゃこの道を諦める。そう決め挑んだフォトコンで、私は見事落選。それは良い。半ば覚悟してた。
許せなかったのは、あの最優秀賞。遠く伸びる海岸線、夕空を翔る鴎。それは私が知る構図で、私が撮りたかったもの。でも、それが撮れる展望台はここ数年封鎖中。なのにそいつは。
気が付けば、そいつにメッセを送ってた。少し後悔をしていると、返信。
『よければお会いしませんか』
「良かった。本当に来てくれたんですね」
「……こっちの台詞です」
そいつは、写真一枚の為に禁を犯しそうにはない優女だった。連れ立って、海浜公園の階段を上っていく。
「その『立入禁止』の文字、読めなかったんですか」
「や、そこでは撮ってないんです。こっちです」
展望台に逸れる道を無視し、少し開けた場所に出た。こんな所があったのか。でも、ここからじゃあの画は撮れない。まず、かなり引いた画になってしまう。
「ハイ!なのでこのレンズを使ってですね……」
そのレンズは動体撮影向きじゃない。鳥なんか撮れたもんじゃない。
「勿論、シャッタースピードは速くして……」
それじゃ明るさが。
「だから、しっかり日が入る時期を狙いました」
……どうしても映り込む、あの枝は?
「強い海風でしなるのを待ちました。ずっと」
以降もベストな返答ばかり。完敗だ。
「……なんで、会おうって言ってくれたんですか。」
「メッセの内容的に貴女、この景色の魅力を知ってたんですよね。なら、もう一人の最優秀賞みたいなものです。折角なら、会ってみたいでしょう?」
週7でバイト。給料は機材費で飛んでいく。先は見えない。そんな生活を、もう少し続けても良いと思えた。
いつからか、「私はどうやって死ぬんだろう?」
そう考えるようになった。
何かの準備していた、夫に聞く。
「ねぇ、あなた。あなたは死ぬときって、どんなふうに死にたい?」
夫は少し間を空けて、上を向き、すぐこっちを向いて話し始める。
「うーん……君と悲劇的な死を迎えたい。」
悲劇的な死?私と?
キョトンとした顔を私がしていると、彼がまた話を始める。
「だって、幸せって、当人以外は何もわかってくれないんだよ。」
彼はまた間をあけて、止めていた手を動かしながら話を続ける。
「人はね、幸せなことより、悲劇的なことが好きなんだ。悲劇的な方がその感情を共有しやすいから。ほら、ニュースを見てみなよ。不幸なニュース、悲劇的なニュース、幸せなことなんて、ほんの一握り。」
あぁ、本当だ。私はうなづく。
それをみて彼は、また話を続ける。
「人間はね、いつも悲劇を求めてる。二人称の死。知人じゃなくても、親族じゃなくても、それに浸れる悲劇を求めてる。三人称の死は気に入らない、一人称の死なんてどうでもいい。まるで、コンテストの審査員気取り。」
私はじっと視線を送る。全部はわからないけれど、少しはわかったような気がする。
「死んでしまったあと、その人生のエピローグに流れるのは不幸を悼んだ人。人は最後にそのエピローグしか残らない。だから、審査員に認められたくて、誰かに私を知って貰いたくて、悲劇を求めてしまうんだよ。」
私はまたじっと彼の目を見る。
そして、疑問をまた彼に投げる。
「それで、あなたは何をしてるの?」
彼は開いていた窓の扉を閉めて、ゆっくりと話す。
「なぁに、炭を焚べてるだけだよ。綺麗な体のほうがいいでしょう?」
「次のコンクール、一緒に頑張ろうね。」
「うん、お互い、賞取れると良いね。」
そんな会話を交わしたのは、事故の数日前だったと思う。
SCP-548-JPは被害者であった女性(氏名███、当時10歳)の持ち物であったこと、当時被害者はピアノのコンクールに向かう道中に事故に遭ったこと、「練習曲作品10第3番ホ長調」は彼女のコンクールでの課題曲であったことがわかっています。
コンクール会場でその知らせを聴いたのは、私の出番終わり、ステージ裏に下がってすぐだった。
「もしかしたら、今日こそ……」
いつも2番手だった私は、完璧な演奏と共に、大きな拍手、お辞儀、勝利を考えた後。
結果は優勝。全然嬉しくなかった。
私はピアノを辞めた。
あの子が亡くなってから、楽しく感じなくなった。
仲間はピアノ塾にも隣町にも、もしかしたら世界中にいたかもしれない。
だけど、高め合ってきたライバルとはもう二度と戦えない。もうピアノは弾かない。
SCP-1917-JPは世界全土において、夜間不定期に出現する人型実体です。
18歳、高校三年生の冬。
学習塾帰りの私は、その光景に単語帳を落とした。
車通りの少ない交差点、ポツンと立った街灯、スポットライト。
グランドピアノに、あの時会話を交わしたまんまのあの子が座っている。
練習曲作品10第3番ホ長調、私が目指していた演奏。
鍵盤はダンスホール、指は踊り子、なめらかで、清らかで、どうしても越えたかった演奏。
「ねぇ、久しぶり。」
息が止まる。
「もうピアノ弾かないの?」
冷たい風が2人の距離を縫い合わせる。
「ねぇ、一緒に弾こうよ。」
ステージに足を踏み入れる、あの子がずれる、空いた空間に座る。
「せーのっ」
“第108回中高生管弦楽器コンテストの銀賞は若狭さんでした!”
やめる理由ができた。感謝している。なんて、吐いた言葉は清々しいものとは言えなかった。
“でも若狭の楽器はやめたくないって言ってる”
金賞の貴女の下らない冗談は何の慰めにもならず、却って私の惨めさを強調している。まだ弾けたのに、君ならもっとできたのに、と。
重いドアを開けると非常灯のみが付いた暗いコンサートホールが広がっている。幸運なことに落下物は少なかった。
“突発性難聴です”
やめる理由はいくつあっても困らなかった。逃げ場が無くなったことに少し安堵を覚えてもいた。
無音のステージへと上がる。普段中央に置かれているグランドピアノは片付けられていて、オーケストラ用の簡素な椅子が同心円状に置かれている。そして、倒れている。
“██県で最大震度7の地震”
あの時から1年振りにホールを訪ねた。目当ては貴女の演奏だった。市内唯一のホールは避難の対象区域であった。貴女のトランペットはまだ楽屋に置かれていた。
私は、貴女を追っていたかったのだろう。そして、自分が音楽をやめたことに後悔していないことを再確認したかったのだろう。
でも、違うみたいだ。
楽屋から貴女の愛用していたBachの変わらず美しいままのトランペットを取り出す。雑然とした楽屋でピストンに油をさす。
貴女のような音が出せなくていい。片耳がおかしくても公表しなければいい。
財布にずっとしまっていた畳まれた銀の賞状を広げ、破る。
やめよう。やめるのを。
指揮台で金色の楽器を一息に吹いた。乱雑な音が闇に吸い込まれた。不思議と口角が上がった。
「彼が歌に優れるのなら、其の舌を抜きなさい。」
私は従った。其の夜、彼女に歌で優る者は居なくなった。
薔薇に水をやった。
「彼女が踊りに優れるのなら、その脚の腱を切りなさい。」
私は従った。其の夜、彼女に踊りで優る者は居なくなった。
蕾を一つ間引いた。
「彼が詩に優れるのなら、其の耳を潰しなさい。」
私は従った。其の夜、彼女に詩で優る者は居なくなった。
株を庭に移し替えた。
間引けば間引くほど、一輪の黒薔薇は大きく、そして美しく育った。
荊棘は触れるものを引き裂きながら伸び、屋敷の柵を全て覆った。大切な物を其の中に仕舞い込み、逃げ出すことが無いように。
写真立の縁をそっと撫でる。埃一つ舞う事はない。
全ては、私が彼の中で常に最上である様に。私以外に目を向けることを許さない様に。
唇をそっと撫でた。月明かりに鮮血よりも朱く光った。
屋敷に新たな娘が奉公に来た。白百合の様に美しい娘だった。
私は黒薔薇に水をやった。
これで、私があの人の中で常に一番でいられる。
そう幼子の様に無邪気に笑い、従者の離れへと彼女は向かった。
「彼女が容姿に優れるのなら、其の息を止めなさい。」
私は答えなかった。お嬢様も、振り向かなかった。
其の夜、この国で最も歌に踊りに詩に、そして容姿に優れる人を看取った。
「申し訳ございません。お嬢様。」
死体は酷く悲しそうに、そして心底嬉しそうに笑っていた。ドレスではなく従者の服を着て。
「どうしても、この手ずから摘みたかったのです。最も美しく咲いた儘に。」
「花が、枯れを告げる前に」
嗚呼、薄暮の創始者よ! 我々はもとより水面下にて鎬を削り合っていた。それを何故、何故今更纏った服を脱ぎ、己を剥き出して戦えとそう仰るのか! 答えよ、答えよ! 何が故、そうまでして我らに剣を取れと、そう仰るのか!
創始者は叫ぶ我々を一瞥し、喉からただ一言、微かな音を零そうと、口を開いた。
「港」
そして創始者は、慌ただしく詰めかけようとする群衆へと向き直り、その口を大きく開いて、もう一言。
「十五日、二十三時迄」
そう言われてしまえば、我々に残された道は二つしか無かった。
一つは、要求された条件を呑むこと。
そしてもう一つは、その要求を無視すること。
「十五日、二十三時迄」
そうもう一度繰り返して、創始者は群衆に背を向けて歩き始める。
「彼の声を聞いたか! 十五日! 二十三時迄! 港だ!」
群衆の誰かがそう叫んだのを皮切りに、我々は口々に叫び始めた。
港だ、港だ、と。
脳髄を焼き切られた者達は、ペンを手に。インクを迸らせるそれこそが、我々の取るべき剣だった。そうだ、剣を取れ。戦え。
我々は、薄暮の創始者の言葉に従って今まで生きてきた。薄暮の創始者の言葉に従って、死んで来たのだ。今迄と今で、一体何が違うというのか! ただ明確に、順位が付けられるだけのこと。試作は望まない。本気を示せと仰るのなら、我々はそれに従おう。
薄暮の創始者よ! 我々を、我々で在らせたのは、貴方の存在だった! 我々に居場所を創ったのは、貴方のその声だったのだ!
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スイミングの帰りに座ったベンチ。隠し持ったチークで私の頬が赤ばんだ時、私は私の顔を初めて好きだと思えたのです。
「こっちの方がずっと可愛い」
手鏡を持つ私へ貴方は向日葵な笑顔を向けました。鏡越しに貴方を見ながら、朱色に隠れたそばかすを顕にするべきでないと直感しました。リップ、ファンデ、アイライナー。綺麗な私で貴方と逢う度、貴方は私を太陽と見做してくれました。二人で買ったアイスクリームはいつも滴っていました。
貴方がこの街を離れてからも、私は大層眩い仮面を作り続けました。髪を毎日梳かしました。吹き出物を恐れて間食を止めました。ジムに通って腰に括れを出しました。顔も知らない男子に告白されました。私、うんと可愛くなりました。ミスコンに参加しだしたのも、確かこの辺り。ライトに透けた私は白妙の肌を振り撒きました。勿論これは貴方の物です、私の物でさえありません。
やっと逢えた貴方は私の姿に大変驚いていましたね。すっかり草臥れたベンチは大人二人が座るには狭すぎたのでしょうか。それとも肩を寄せ合わなかったから?私は訊ねました。綺麗になったでしょ、って。貴方はそれを認めつつ一言付け足しました。
「でも、ありのままの貴方が一番綺麗よ」
ルッキズムという語を初めて知りました。外見での差別は許されないと、内面で判断するべきだと、"綺麗"に囚われる必要は無いと。
ざんねん貴方と私は死にました。大理石のステージに向けられる歓声は全て無価値です。それでも氷菓子を舐め合ったあの子のために私は一人で歩きましょう。さあ飛びっきりの仮面で!一番可愛いポーズで!練習の成果を、今!
影を掻き消す程の夥しい照明は、依然私を照らし続けた。
きっかけなんて本当にくだらない、飲みでの戯れだった。M-1グランプリという、プロの漫才師にとっては最高の栄誉を賭けた天下分け目の大戦だろうと、その姿をテレビ越しに眺めていただけの大学生2人に言わせればディズニーシーと大差は無かった。
2分のネタを頑張って書き上げた。テレビとTikTokから得たひらめきを元に。
ネタ合わせは3回もした。カラオケのついでに。
直前にはネタ見せだってやった。友達グループを爆笑の渦に巻き込んだ。
しかし実の所、少なくとも私はそんなに良いところまで行こうだなんて思ってはいなかった。プロの芸人も大勢いるだろうし、2回戦まで進んだら3分のネタを書かなくちゃいけないし、そもそももうすぐ秋学期に入るから日程が合わないかもしれない。遊びのつもりだった。
たった2人の大声がホールに跳ね返り続けるだけの2分間だった。ネタは詰まったし飛ばしたが、その度に変な空気が流れるとかいったわけでもなく、本当にただの一瞬も空気が流れを変えることは無かった。何も知らない私達を歓迎してくれるかのように思えた拍手は、2分後には賑やかしをさっさと追い出すためのものにすっかり変貌していた。
私は舞台袖で「お疲れー」と淡白に労ってきた相方に思わず凄んでしまった。相方にとっては単なる遊びの一つだった。私にとってもそうだった。こうなるに決まっていたのに、私は自分が拒絶されたことが大層恥ずかしかった。
それからしばらくの間、私達2人がグループでの語り草となったが、1ヶ月もすればすぐに飽きられた。いつか大人になって皆で集まった時にはいい語り草になるのだろうか。
ひと夏の大冒険は、今も私の頭の中にこびりついて離れない。
長かったコンテストも終わりを迎えようとしている。厳かな場の雰囲気を感じ取ったのか、息子がぐずり始めている。必死であやしているが今にも泣き出しそうだ。
「"理想の母親コンテスト"の栄えある優勝者は……お子様連れで参加された4番のお母さんです!」
司会の言葉とともに、私にスポットライトが集中し、客席からは万雷の拍手が沸き起こった。
「今のお気持ちを聞かせてください!」
音と光の洪水で号泣する子供を係の人に預け、突き出されたマイクに向けて答えた。
「最高の気分です!」
「おめでとうございます。ここまで大変だったでしょう」
「はい。家事も育児もずっとワンオペで。昨日も夜泣きが酷くてほぼ寝てないんです」
「お疲れ様でした。挫けず頑張れた理由は何だと思いますか?」
「そうですね。私は家庭に理想像があるんですけど、理想と現実のギャップは私一人では埋めようが無くて」
「そうですね。理想の家庭は理想の母親だけで作れるわけでは無いですからね」
「はい。なのでもう優勝賞品を狙うしかないなと」
客席から軽く笑いが漏れる。
「正直でいいですね。では、優勝した今、何をしたいですか?」
「早く家族に会いたいです」
「家族想いのお母さんですね。では、早速優勝賞品の進呈に移りたいと思います」
幕の裏に2人の人影が待機しているのが見える。私はその人影に微笑んだ。
係の人が預かっていた子供が泣きながらこちらに駆け寄ってきたが、私の心には届かない。振り返る必要もない。理想の家庭が待っているのだから。
司会が一際大きな声で叫んだ。
「こちらが優勝賞品の、理想の夫と理想の息子です!おめでとうございます!」
城の大広間に到着すると全員が俺に対してどよめいている。ここにいる奴ら全員がシンデレラコンテスト参加者であり、長らく不参加を決め込んでいた俺の飛び入り参加を予想していなかったからだ。
「初代シンデレラ?何でここに」
「終わった、優勝候補がここにきて増える」
「…シンデレラ、来てくれたんだね」
王子の、過去のコンテストで俺を負かした声だ。
「冷やかしで来たんだよ、この城がまだお前の所有者ってことは負けてねえんだな。ハッ、才能あるよ」
「何でコンテストから去ったの、僕の勝ちが気に障ったのなら…」
「自惚れんなバァカ、表彰台以下の順位に価値なんてねえからだ」
「……」
あの日と同じドレス、同じティアラ、同じチーク。でも、ガラスの靴はもうない。
「価値がなかったらいる意味がねえんだよ。全員が優勝、全員がシンデレラっていうのは負け犬の」
「僕は!」
逸らし続けていた目が煌めいた。
「負けても挑み続けたシンデレラの姿を見てああなりたいって思ったんだよ。表彰台以外の瞬間に価値がないってこれ以上言うなら、貴女が否定しているのは過去の僕もになる」
「……シンデレラコンテストで殿堂入りして、王子コンテストでも優勝したのは?」
満面の笑みをすると、王子は俺に跪いて何かを置いた。
「時計の針が1周しても、シンデレラと夜を踊りたかったから」
「女なのに?」
「男子オンリーなんてレギュには無かったので」
「王子ってそうなんだ。知らんかった」
しばらくぶりだったそれに足を通す。あの日と変わらずピッタリの靴。
「舞踏会って飛び入り参加でも大丈夫か?王子様よ」
「そのために取っておいたんだよ、貴女から受け継いだものを」
少し笑い、いけ好かない王子の手を取った。
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鮮烈な赤、濃厚な青、気品ある白に煌めく金属光沢の鱗、そして半月状に開く尾ビレ。ここはベタの品評会だ。
私はベタのプロブリーダーであり品評会に出品している。ここで好成績を残し評価を得、繁殖させたベタを高額で販売する。そうやって飯を食っている。
ベタ、闘魚とも呼ばれるタイ原産の熱帯魚。ベタの飼育は観賞魚として比較的簡単だという話もある。極論すれば大きめのコップの中でさえ飼える。しかし商品にするのは難しい。
水温管理は言うに及ばず。繊細なヒレを傷つけない。ヒレを大きく均整かつ体色を鮮やかにするため、水槽越しに向かい合わせ威嚇、フレアリングを毎日数分行わせる。闘魚であるベタは気性が荒く交配は面倒。オスとメスでも気が合わなければ喧嘩するし、その上で美しい品種を維持選別せねばならない。
私の出したハーフムーンは準優勝。直販用のベタも期待通りの値がついた。売れ残ったベタを店に持ち帰り、そのまま帰宅。
「ただいま」
「んあ、おかえりー」
ゴワついた黒髪、くたびれたパジャマ、目尻には目ヤニ。娘がゲームをしていた。夜だからパジャマという訳ではなく朝から着替えてもいないのだろう。
娘は放任主義で育てた。手のかからない子だ。勝手に大学に入り、卒業し、今はたまにバイトをする実家住みのフリーターである。
「ご飯食べた?」
「ラーメン食べたー」
自由奔放に生き、将来の事は考えない。行き当たりばったりで、漫画やゲームが好きな子だった。
「げっトゲゾー!?あーあーあーあー!」
私は泣いた。
ゴール直前で連続で妨害を喰らい最下位に落ちてコントローラーを投げ捨てる、パジャマを着た娘に感涙した。
育つままに育ったこの子はこんなにも愛らしく美しい!
琵琶湖の空を、君が飛ぶらしい。数年ぶりにきた連絡、「ねえ、俺が明日飛ぶとこ見てて…///♡」なんてラインの返答に、実のところ困っている。
人が飛ぶとは思えなかったし、君が飛ぶなんて余計に思えなかったから。
だから、見なければいけない。ライブ配信をテレビに映すと、他人が水没したところだった。水没したのち表示された飛距離は、飛翔と呼ぶにはささやかだ。昼食のインスタント麺を啜りながら、幾つもの水没を流し見する。
──飛ぶための翼。何処へ行くでもない骨組み。そんな純粋なものを、君も背負うという。
僕等は飛ばないはずで、くだらないひねくれもので、だからこそ友人になった。けれど、そう思っていたのは僕だけだったのかもしれない。明確に決めていた進路に、空を飛ぶほどの情熱。大きく変わってないのは微妙に面白くないノリと、連絡先と、容姿くらいのものらしい。画面に映る君の姿と、調子に乗ってインタビュアーに苦笑いされる姿を見守る。
いいさ。変わるものを受け入れないほど、もう僕も子供ではない。疎遠ついでにどこまでも飛んでいけ。見ててやるから。
そう思っていたのに、お前はなぜか人力飛行機のケツを持っていた。満面の笑みで、筋肉質なパイロットに手を振っている。おい。
綺麗な軌道で飛んでいく翼、滑走路で笑う顔。釈然としない俺。
LINEを開いて、「お前が飛ぶんじゃねえのかよ」と打って、消す。奴の思惑通りな気がしたし──それに。飛んでいく翼は、パイロットだけを乗せているわけじゃないと悟ったから。
代わりに、「インタビュークソ滑ってたな」とだけ送ってやって、目線をスマホからテレビに移す。
画面越しでも、空は青い。
黒猫が、目の前を横切った。
仲良し3人組で気づいたのは私だけだった。
「黒猫だ」
思わず呟くと、両脇から2人がどこ!?と言って十字路に駆け込んでいった。
「ちょっと!急に走んないでよ!」
その時、猫に続いてトラックがスピードを出して目の前を横切って行った。
一気に緊張が走って私は冷や汗を拭っていたけど、2人は危なかったね、って笑い合っていた。少しホッとして、私も一緒に笑った。
良かった。何も起きなくて。
黒猫が目の前を横切ると、悪い事が起こるんだって。
そんな話を知ってるのは私だけ。
昔から魔女とか魔法とかの不思議な話が好きで、家で1人でよく読んでたから。でもそんな迷信を教えたら、この学校から帰る時のいつもの空気を壊してしまいそうだった。実際2人はトラックに轢かれずに笑ってるんだし、私はそれで良かった。
幼なじみの私たちは学校でもいつも一緒で、趣味も同じ。隠し事がしたいわけでも2人を騙したい訳でもない。2人のことが大好きでずっと仲良しでいたいから、余計な話はしないだけ。
だから、黙っていた。
トラックが走っていった方の道から、ぱんっ、という音が、笑い声にかき消されつつも響いていたことを。
2人だって、私に言ってないこととか、秘密の趣味とかがあるのかもしれない。小学生の頃まではそんなこと考えたことなかったけど、最近はそんな妄想をするのも楽しくなっていた。
そういえば、黒猫が目の前を横切ると、逆に良い事が起こるって話もあるらしい。
さっきの黒猫には申し訳ないけど、私には良い事の予感のようにも思えた。
道を別れた親友2人の背中を確認してから、私は家に向かって走り出す。
私がコンテストに出したTale、どうなったかな。
厚い雨のヴェールに覆われた著者学の旧校舎を、新校舎の庇の下に座り込んだ桜色の少女が見つめていた。彼女の心中は、まさに今の空のような重い雲で覆われている。海の向こうで終演したコンテストの優勝作を、まさか自分が訳すことになってしまうとは。携帯端末を開くと、小憎たらしいアザラシの笑顔が見える。こつ、と後ろの方で足音が聞こえた。
「まだ冷えが残っているから、風邪引いちゃうよ」
「……あなたは」
「浮かない顔してるね」
彼女のことを知らないわけではない。身長がちょうど2mで、生徒会役員で、最近は彼女のもとに翻訳者が次々と集っているという 思考は、傘も持たずに豪雨へと踏み出そうとする彼女の後ろ姿に遮られる。
「濡れてしまいますよ」
「いいや?」
彼女が庇から一歩踏み出したその瞬間、風がビュウと吹いた。雨がひときわ強くなったかと思うと、それはすべて桜の花びらになる。あまりの眩しさに思わず目を閉じてしまう。再び目を開けると、彼女は大雨に打たれながらも柔和な笑みを浮かべていた。
「絶望に押しつぶされそうなときこそ、雲の向こうにはいつも星があるというをことを忘れてはいけないよ」
「どういうことですか?」
まるで、自分に言い聞かせているみたいだった。制服のスカートが雨水を含んで、彼女の腰にまとわりつく。
「この学園には、ある病が蔓延しているんだ」
「それは……」
「低品質翻訳さ。見たまえよ、旧校舎のボロボロ具合を」
彼女の濡れた、大きな手がいやに目につく。彼女は騎士めいて腰を折り、膝を地面についた。そして、手を差し伸べてくる。
「私とともに来ないか? この病を、治療するために」
彼女の手を取る以外の選択肢は、すでに失われていた。
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8オンスの闘志が、真っ直ぐと顔の正中を捉えた。鈍い音と共に濃縮された時間が現実に希釈される。
矮躯の勇士が繰り出した右ストレートが、熊が如き大女を10カウントに伏させた。
「はは、あたしの負けだね。望み通り、あんたの恋人になってやる」
「……手、抜いただろ」
閉門時間間近の部室に二人を妨げる者はいない。故に彼の追及は、人の目を憚らぬ鋭利な眼差しを伴っていた。
「考えすぎ、あんたは強いよ」
「ふざけるな、君がたかが一撃で膝をつく訳ないだろ!」
彼は激昂した。その小さな体は怒気で膨れ、言葉一つ一つが額から頬へ伝う雫を揺らす。
「ちょっと、落ち着きなよ」
「こんなの無効試合ノーコンテストだ!結局君も憐れんでるんだろ、俺のこんな体じゃどうにもならないって──」
「あんたがっ、好きだからに……決まってんでしょうがっ!こんな勝負に乗る時点で!」
膝をついていた彼女は毅然と立ち上がり、勢いそのままに彼をロープまで殴り飛ばす。
「でもあたしすっごい強いんだよ、あんたじゃ一生敵わない!こうする他ないじゃん!」
「そんなの、認められる訳がないだろ!」
ロープにしがみついた儘立てない彼は、それでも果敢に彼女の咆哮に反発する。
「じゃあこうだ、あんたは今あたしに負けた。だからあんたがあたしの恋人になれ。再戦ならその後いつでも受けてやる。いいな?」
彼女の暴論に彼は強く歯を軋ませ、そして観念し──それから再びきっと睨みつける。
「わかったさ……でもいつか絶対、俺が君を恋人にしてやる」
「ふん、その意気だ。どうよ、早速今からもう一戦。まだ暴れ足りないんだ」
「望む所……いや、今は、無理──」
勇者は忽ち昏倒した。
日常はいつも仮面舞踏会。
大学デビューという行為は、云うならば衣替えである。これまで着続けた明るい私をクローゼットに戻す。もうヒビが入りかけていたのだ。我ながら慣れない役を3年間も続けられたものだと思う。
さて、次の自分は何者になろうかと考えながら、クローゼットに飾られた自身の仮面に目を向ける。数々の私が、自分を着るべきだと訴えていて、まるで勝利を希う選手に見えた。一つ一つ、手に取ってみる。
野心家の私。
大学生活は比較的穏やかに生きたいのだ。これは不要だ、放り投げる。
及び腰の私。
穏やかといっても、これではきっと周りから舐められてしまう。これも不要だ、放り投げる。
私の一側面を切り取って、薄く伸ばして作られた仮面たちを、手に取っては放り投げる。そんな作業で、ふと手が止まる。
お調子者の私。
これは確か中学時代に着けていたものだ。あの頃の自分はどんな風に過ごしていたか、思い出に浸ろうとして気づいた。
覚えていない。
曇りガラスのような記憶が脳を漂っていた。原因を考え、とても簡単な事に思い当たった。
仮面をつけた視界は酷く限られている。
だから、漠然としか覚えていなかったのだ。私には仮面を着けていたという事実しか残っていない。果たして、私はどこにいる? 手に持った仮面が、ケタケタと笑っている気がした。
ここは今、分水嶺だ。
私は持っていた仮面を地へ叩きつけた。割れ砕けた残骸を一瞥して、洗面所の元へと向かう。私の存在を確かめるために。
鏡に映る私は酷い顔をしていた。けれども、少し安心した。
長い間、着けていたものだから忘れてしまっていた。そんな顔をしていたんだったな、私は。
「合唱コンクール近いよね」
ストリングスのような優しい声が、辺りの空気を小さく揺らす。木造校舎を真四角に切り取った教室で、俺と彼女は二人きり、息をひそめるように譜読みをしていた。
「あれ、コンテストじゃなかった?」
「意味一緒だよ。調子どう?」
「まあまあ……かな」
返答に困る。話題の繋げ方にも困る。少しどもってから、俺は両の人差し指どうしを擦り付けて、とつとつと言葉を並べる。窓から見える空はからりと晴れていて、対して天井に並んだ蛍光灯は眠っている。
「き、君は指揮だよね。そっちのクラスはどう?」
「ああ、ええと。朝練に全然人が来なくて、結構ぐだぐだかな」
「荒れてるもんなー、五組」
まなじりを下げながら、彼女は前髪を弄んでいた。彼女の楽譜は几帳面にファイリングされている。
「こっちはバスがほぼテノールの音域でさ、マジで声出なくてみんなひぃひぃ言ってる」
「大変だねぇ」
なけなしの話題は、相変わらずぷつぷつ切れる。静寂。開け放たれた窓から新しい空気が飛び込んで来て、俺と彼女を包み込む。
「……マックの照り焼き食った?」
「まだ」
暴力的なまでに鮮やかな陽光が、俺の瞳をじりじりと焼く。
「今日暖かいね」
「そうだね、半袖でよかったなぁ」
彼女の品の良い唇が小さく動くのを、俺はただ見つめている。俺には言いたいことがある。
「課題どう?」
「数学は終わった」
指揮がブレた合唱みたいな雰囲気だった。見てもいない楽譜が両手を零れ落ちて、ひらりひらりと床に散らばる。
「……」
指先は震えていた。
「あの、さ。俺、君のことが、」
純白のカーテンが、風をはらんで揺れている。
「先生!今回の案件は分が悪すぎます!」
まだ顔に若さの残る秘書は扉を開けるなり、老淑女に対し叫ぶように言った。
「ああ。ただ、依頼人には借りもあってね」
そう言って部屋奥の事務机に座る彼女の胸には、秤を中央に配した記章があった。
「戦後相続法学界の重鎮が死んだんですよ、集まる相手も……」
「噂によれば虎ノ門、四条烏丸、小倉……大手所属の新鋭から専門事務所の長老まで、有名人が勢揃いだ」
「そこまでわかっているのに!」
大声を出した秘書はふっと恥じるように視線を下げ、改めて口を開いた。
「依頼人の情報を確認しました。判例からして、主張が通るとは思えません」
「君はまだ調査が甘いね。開けられた秘密証書遺言いごんを読んだのかい?」
首を振る秘書に、老法曹は机の上にあった紙を渡した。
「……これは、どういう形になるんですか?」
文面に目を通した秘書の顔には、かつて筆記試験の難問を前にした時のような困惑が浮かんだ。
「わからん。現行法制度上の規定はないし、判断を回避できないようになっている。最高裁まで行けば新判例になるだろう」
「まさか、それを見越して遺言をこのような形に?」
「かもな。その価値を思えば無償プロボノでやってもいいぐらいだ」
それでも不満そうな秘書を、老弁護士は手を出して遮った。
「この依頼を受けるには遠出しなきゃならない。ここに残って情報を調べてくれる秘書がいれば、私も心強いんだが」
「……やりますよ。先生が負けるとは思いませんから、安心して行ってください」
意志の闘争ウィル・コンテストである遺言異議Will Contestが始まろうとしていた。
「著者えも~ん、また夏のコンテストの季節がやってきちゃったよ~」
「わかってるよ、僕に手伝えっていうんだろ?砂箱学園に入りたい!って言ったのは君じゃないか」
「別に手伝ってくれてもいいじゃないか!ケチ!共著してよ!」
「僕はロボットだから、砂箱学園の校則引っかかって君が退学になるよ」
「そういえば著者えもんって生成AIだったね」
「生成AIって呼ぶの僕の人格性を無視してるようで嫌なんだけど、まあそうだね」
「著者えもん、生成AIって著者って名乗ってもいいの?Authorだよ?原語の"auctor"の通り著作活動には権威が伴うよ」
「僕のアイデンティティをいきなり否定した上に議論が紛糾しそうなテーマ投げかけるのやめない?ここ普通の家庭だよ?」
「著者えもん、"普通の家庭"って何だろうね……」
「どんどんおかしな方向に話が脱線していってる」
「それはそうと、コンテストの内容が何にも思い浮かばないよ~」
「そういやコンテストって言ったってテーマは何なのさ」
「え?"私は真に驚くべき証明を見つけたがこの余白はそれを書くには狭すぎる"コンテストだよ」
「不適格だよ!あまりにもタイトルが長すぎるし、作品への連想が絶望的に難しいテーマなの良くなさすぎるよ!」
「いっその事『言い訳コンテスト』とかでもいいよね、実質」
「フェルマーに怒られろよ」
「……って感じの話を書こうと思うんだけど、どうすかね先輩」
「まずはTwitterやめよか」
「さあ、袖にする人コンテスト決勝戦!最後に残った二人はいずれも初出場!新星同士の戦いとなりました!」
仕事一筋で過ごし続けて幾星霜、婚期は既に遠のきつつある。周囲に取り残されて焦り、されど遊びの一つもしてこなかったのに簡単に事が済むはずもなく、愚痴る私に親友が誘ったのがこのコンテスト。
『袖にする人コンテスト』。犇めくは万人もの独身共。それらを互いに誘わせ、そしてひたすら袖にさせる。全て袖にして優勝するも良し、誘いを受けて脱落するもそれはそれで良し。いや寧ろ途中で脱落する事をこそ私たち参加者は望んでいた。
私だっていい感じに出会いを得ようとここに来たのだ。そのはずなのにもはや相手は一人しかいない。次で私の命運が決まる。即ち結婚か、独身か。
「さあ!選手入場です!」
歓声に包まれるドームの中、バクバクと鳴る心臓の音を感じながらステージに上がる。相手は反対側からやや遅れて上がってきた。もう顔が見える。私の運命を決める輩は一体――
「やあ、やっぱりここで会ったね」
親友だった。
「え」
あれ、と心底不思議そうに親友は首を傾げた。
「そりゃこうなるよ。ぼくらって理想高すぎだし。いっそ二人でくっついちゃお?」
笑う親友に私はどう返すこともできなかった。
「なんと両選手にはただならぬ因縁があるようだ!」
囃し立てる司会者の声が頭を通り抜けていく。穏やかに微笑む親友の顔がやけに綺麗で、満足気で。分かってたっていうのか。そして、私にも分からせるために?
向けられたマイク、微笑む親友。群衆の歓声が脳に響く。こんな、こんな事があっていいのか。
感情がそうしろと言うままに私は崩れかけの笑みを浮かべた。
「帰っていいですか?」
bブロック
閑散とした著者部屋には、彼女の姿はなかった。新着記事の貼られた掲示板にも行きつけの談話室にもいなかった。まさか。後頭部に汗が滲む。
嫌な予感は当たる、まさに彼女は記録室に居た。数多のトロフィーに囲まれて、彼女は金賞の記録をじっと見つめていた。
視線の先には一つのユーザーネームが浮かんでいた。彼女の初めて知った名前だ。それだけではない。初めてのブレスト、初めての批評、初めての著作。彼女の全ての"初めて"はその著者娘に支えられていたのだ。
「私の師匠、このコンテストで優勝していたのですね…」
正直、今度のコンテストのことを彼女にはあまり知らせたくなかった。
元々、彼女は物事に打ち込みすぎるきらいがあった。以前も、期限ギリギリで作品をジャムった挙句、投稿後4日は床に伏せっていたのだ。
それが"師匠"の優勝したものと同名のコンテストを知ったらどうなるか、想像には難くない。
その上、「彼女は"弟子"なのだから、当然次回のコンテストに優勝するだろう」という無責任な噂が著者娘間で嫌と言うほど流れていた。
当然、続くべき道。当然、実現すべきジンクス。当然、戴くべき賞。その"当然"が彼女に降りかかる恐しい呪いのように見えた。
だから、コンテストが話題になった時、必死に話を逸らした。彼女をこの記録室から遠ざけようとした。しかし、
「私、今度のコンテストに全部を賭けるつもりです」
その"当然"の狂気を、すべてこの娘が背負うつもりなら。
「師匠と同じ賞を取りたいんです」
"当然"という呪いを、すべてこの娘が飲み込むのだとしたら、
「だから、どうか、私と一緒に戦ってください。」
自分は、彼女と共に狂って見せるしかないのだろう。
主は羊飼いアベルとその供え物とを顧みられた。しかし耕作人カインとその供え物には顧みられなかったので、カインは大いに憤って顔を伏せた。俺も大いに憤って主に殴り掛かった。
「クソボケがーっ!」
カインとアベルと主はお前誰だよという顔で俺を見た。真正面から空き瓶の一撃を受けられた主は、額から血を流しながらゆらりと立ち上がった。
「大空に月と日が姿を現してからこのかた、紅の美酒に勝るものはなかった。酒の原料である地の産物を顧みぬとは如何なる心算か」
「私が定めた法では酩酊を罪としているゆえに、地の産物をよしとせぬ」
落ち着きを見せた主にヘッドロックを極め、その口に赤ワインを流し込んだ。
「過去と未来に渡って全知である主であれば、あなた自身でもあるキリストが水をワインに変えた故事をご存知のはず。その弁明は無効です」
「主よ、こいつ酔っ払っております」
アベルが叫んで羊飼いの杖で俺に殴りかかり、主はその杖を受け止めてよしとされた。無論ヘッドロックを受けたままである。
「私が頑迷だったのかもしれぬ。酒は確かに良い。量さえ過ぎなければ禁じるほどではなかろうな」
「では、これは受け取っていただけるのですか」
カインが嬉しそうに頬を染める。すると主は頷いて、カインが持ち寄ったワイン、いちじく、大麦、セージを顧みられた。アベルが持ち寄った羊肉と乳酪を受け取って、俺は調理を始めた。羊肉を入れた麦粥である。これにチーズを入れると酒によく合うのだ。
結局お前は誰だよという3者の視線に微笑みと杯を返すと、その日は鍋を囲んでの酒宴となった。俺たちは大いに飲み、食べ、語らい、楽しんだ。天国とは楽しく過ごした一瞬であり、この時であった。
ピアノコンテストの閉会式には出なかった。優勝者の不在により司会進行は大いに混乱したと、同級生がくすくすと笑いながら伝えてくる。無視して立ち上がり、ギターケースを掴んだ。退出したあとの教室が賑やかになったのを背中で感じ、廊下の壁を歩きながら蹴飛ばす。
習った事は全て、うまくやってみせる事ができた。作曲に必要な理論を身につける為に片手間で習ったピアノの才能も、いつも通り華々しく開花し、合唱部と吹奏楽部から勧誘を受けた。私はロックがやりたいから、と告げて全部断ると、この中学校に軽音部なんてないじゃないか、とでも言いたげな顔をされた。
初めてコンテストで表彰された時のことを思い出す。わざわざ会場まで出向いた家族は私の事を皆で抱きしめてくれた。お姉ちゃんはずっと、凄いね、凄いよ、と泣きながら言い続けていて、私が欲しいのはこれじゃなかったんだとは、遂に言えなかった。
勝手に練習場所にしている、廊下の外れの陽が射さないベランダに出る。ギターに繋いだ電池式のポータブルアンプにイヤホンを差し、基礎練習を始める。コンテストに家族を呼ばなくなったのはいつからだったろう。Gメジャーの音階で上昇する。それでもお姉ちゃんが毎回、バンド練習を休んで顔を出してくれていたのは知っていた。音階で下降する指が途中で止まる。
遠くから吹奏楽部の合奏が聞こえた。管楽器に明るくない私でも分かるほど合ってない音程。聴くに堪えない、不足したグルーヴ感。しかし熱量だけは十分なマーチが何だか妬ましくて、愛機の黒いレスポール・ギターを抱きしめる。弦が鼻先に触れ、その金属の香りに、私を撫でるお姉ちゃんの指を思い出した。
文化祭で美少女コンテストが開催される。女子生徒からは「ルッキズムの助長」「多様性に配慮がない」など様々に抗議の声が上がったものだ。しかし工業高校の本校は男子の割合が多いもので、多数決の結果、面白半分に決行されることになった。クラス代表一名を挙げよ、というレギュレーション。文化祭当日まで、各クラスの間で奇妙なほど秘密厳守の統制が敷かれた—そして迎えた当日、ステージを見て実行委員が言う。
「クラス代表一『人』って書かなかったのがバカなんだよなあ」
「男子が乗り気だったのってこういうことかよ」
あろうことか全部のクラスが、人間以外を提出してきたのだ。「美少女」をテーマにした制作物を—「制作物でも『一名』なら名前はあるからレギュレーション的にセーフ」という暴論を引っ提げて。これを受けて美少女コンテストの司会進行は、生徒会のお調子者・木田から、ロボット工学の教師・滝尾と美術部顧問・千崎に急遽変わることになる。
「女子生徒の人身御供はおろか、男子生徒の女装すら生ぬるい、ときましたか、馬鹿どもがよ」
自律する美少女アンドロイド、ノベルゲーム(全年齢版)、歌唱合成音声エンジン、自動人形。学校中の自販機からカフェイン系が消え、技術班とマネジメント班が死屍累々となり、デザイナーたちは早起き作業のために早弁を余儀なくされる。授業中の居眠りが増え、保健室の稼働率が前月比200%になり。今日のためにやりきりました!という清々しい笑顔でもって、彼らの青春はここにひとつの結晶となった。
「美少女コンをやれば内ゲバ起きまくりで愉快なことになると思っていた私が愚かでしたね」
—教頭が呟く。青年たちの夏は青かった。
コンサートホールの舞台裏は忙しい。分厚い扉の向こうから漏れ聞こえる旋律や拍手を糧として、働き蟻は日陰で汗水を流す。
楽な仕事ではないけれど、わたしは望んでこの職に就いた。きっかけは、中学一年生で出た吹奏楽のソロコンテスト。
田舎の弱小校だった。演奏が下手だから部員が少ないのか、部員が少ないから演奏が下手なのか。わたしはそんな部から生まれた天才トロンボーン奏者だった。周りから褒めそやされ、わたしは自分の実力を疑うことなく意気揚々とソロコンに参加した。
天狗の鼻はへし折れた。舞台袖で他の参加者の流麗な演奏を聞き、わたしの視界はモノクロに歪んだ。きっと酷い顔色だったと思う。係員のお姉さんが気遣わしげにこちらを見ていた。
気付いた時にはわたしの番だった。アナウンスが響き、扉が開く。全てが他人事のようだった。わたしはふらふらと足を踏み出した。
背後でそっと囁く声が聞こえた。
「楽しんで」
その瞬間、世界に色が戻った。
それだけ。劇的な出来事は起こらなかった。平静を取り戻したところで技術の差は覆らず、わたしの演奏は順当に低い評価を下された。
けれどあの一言がなかったら、わたしは音楽を嫌いになっていた。訳も分からないまま演奏して、舞台を降りて、そのまま戻ってこなかったと思う。
中学でも、高校でも、立場が変わった今でも。ソロコンの舞台袖ではいつもあの声が鮮明に甦る。
扉の向こうで拍手が沸き起こる。ホルンを抱えた女子が満足気な顔で退場していくのが小窓から見えた。
さあ、次だ。待機していたトランペット吹きの彼と目を合わせる。扉を引き、身振りでステージを指し示す。そして微笑を浮かべて口を開く。
紡ぐ言葉は決まっている。
高校最後の美術コンテストは刻々と迫っていた。部の同期の大半が下描きを始め、中には色を付けている気の早い奴らもいる中、まっさらなキャンバスとの我慢比べに時間を終やし、斜陽の住宅街をとぼとぼ帰っていく自分の姿があった。
未経験の自分が中学でその道に飛び込んだのは、世界史の教科書に載っていた「ゲルニカ」のせいだ。パブロ・ピカソが、同名の地への爆撃を非難して制作した作品は、歪んだ表情や四肢が凄惨さを克明に表している。初めて見た時、ピカソには彼の地がそう見えたのだと思った。
絵画とは、画家の世界の出力なのだと思う。彼らの見た世界が、風土によって、感情によって、人生によって、変容したのだ。空と海と日の出とが淡く混ざっていようが、星月夜が斑点の流転によって拗られていようが、嘘偽りなどでは無く、彼らが世界をそう見たのだ。
絵に自分の世界の全てを注ぎ込みたかった。轟轟たるもので全てを覆い尽くしたかった。燦燦たるもので皆の目を眩ませたかった。
結局のところ、夢は叶わなかった。丁度目線の高さにある作品を見る。
キャンバスの右奥にアスファルトが伸びてゆき、沿うように一軒家が並ぶ。奥には公園を囲む柵が見え、木々の間から落日が顔を覗かせている。
暮合いの帰路を描いた、平凡な絵だ。ただ、後悔は無かった。清々しさだけが心にあった。
皆は知らないのだろう。絶望に打ちひしがれる劣等者を包む夕日の温かさを。赦しを授けるが如く覗き込む太陽の快さを。
分かって貰う必要など無い。あの路地こそが、僕にとって最上の世界なのだ。
ゴミ袋に雑に押し込まれた画材を振り回し、美術室の前を颯爽と去る。
僕だけは僕の世界を慈しみ続けよう。
aブロック
そのロボットは、俺らの青春だった。
高専生活最後のロボコン。その晴れ舞台で、ロボットは二分間沈黙した。
珍しいことではない。一年に数台は動作不良で大会を終えるから。そんな様子を、何度も過去の大会で見てきた。
それでも、実際にピットでそれを目の当たりにしたとき、自らの不運を呪った。
フェルトの装飾を剥ぐと、地味な機械が残った。
倉庫も予算も有限だから、ポンコツは分解される。俺らの任務は、資材のリサイクルと動作不良の原因究明。
半年の間心血を注いで設計し組み上げたロボットを、司法解剖のようにひたすら分解する。「異常なし」の報告以外、誰も口を開こうとしなかった。
機械から基板を剥ぐと、アルミの置物が残った。
通電チェッカーに異常。通信部のコンデンサの足が外れていたらしい。
本番前日は問題が無かった筈。移動の際に破損したのか、元々外れかけていたのか。
いずれにしても、これは検証に回す必要があるだろう。誰かを責めるためではなく、もう二度と繰り返さないために。
基板を置き、「異常発見」と報告し、解剖に戻った。
そして、置物から更に資材を剥いで、余ったガラクタすら処分して、何も残らない。
それでも。
まだ、やるべきことはある。失敗からも知識は、技術は、教訓は得られる。
だから、感傷に浸る前に、せめて記録だけでも残そうとPCを開いた。
そして、翌年。
資材が組まれ、基板が接続され、装飾が施され、ロボットが完成する。
俺らはそれを、タイムラプスのようにしか見れてないけど。
それでも確かに、設計思想の一部が継承されているのが見えたから。
烏滸がましいかもしれないけど、かつて俺らが先輩から受け取った激励の言葉を、ピットに発つ彼らに叫んだ。
砂漠と停滞がひたすら続く辺境において、退屈を解毒する術は必須となる。人々は都市から流れてきたチープな伝記映画を眺めたり、薬を吸って性交渉したり、あるいはコンテストを開いたりする。
「こんな僻地が騒がしくなるなんてのも珍しい。なのに、ボロ酒場で仏頂面か? もっと笑えよ、主役がそんな顔じゃ盛り上がらねえ」
隣でアブサンをすする男が微笑を浮かべそう言った。開拓時代に労働者の暇つぶしから始まった危険な競争は今や表ではガンマン、裏では賭博師によって少なくない金が動く大衆の娯楽へと変わった。ルールは簡単、一対一の早撃ち。起源が起源なだけに単純、そして味がある。
黄酒を注いだグラスが目の前に置かれている。銅を溶かしたかのような色の酒が並々と器に満ちていた。この酒場は近辺で一番活気が無くしけていて、静かに酒を楽しめる。
「明日死ぬかもしれないってのに安酒かい? 王者様」
「今日はこれの気分だ」
景気よく喉に流し込む。甘く豊かな香りがぶわりと鼻へ抜けていく。
「ハッ、流石の自信だ。嫌いじゃねえ」
男の方を見ると、エメラルド色の高級酒の最後の一滴が口の中へと消えていくところだった。ニヒルな笑みがどこか優雅だ。老獪なコヨーテを思わせる。
「だがな、皆そろそろ新しいスターを見たいんだ。潮時だぜ。明日がその晴れ舞台になる」
俺たちにとってコンテストとは一方の死を意味するものだ。勝者の栄光は敗者の血を以て高められる。
「俺は勝つぞ」
男は店を出ていく。後には二つの酒の香りが混じった奇妙な匂いだけが残る。
来週辺りにアブサンでも飲みに来るか。それだけを考え、残り僅かの黄酒を呷った。
「レベルが違うな」
一面の花吹雪の中——否、大量の花弁に集られて姿すらおぼつかない表彰台の女に対し、名も知らぬ隣の男がごちる。
生前、私は地獄も天国も信じてはいなかった。しかしいざ死んでみると善も悪も一緒くたに天国に行くらしい。そして今、その年昇天した中で一番花びらが降っているやつが優勝するコンテストなるものが目の前で開かれている。そも、この花弁はなにかと問われれば伝承の類だ。曰く、死後その人のことを生者の誰かが思い出すたび、天国ではその人の周りに綺麗な花が降るんだと。天国じゃ花びらがステータスらしい。
「今年は虐殺も戦争もなかったろう。政治家でもなさそうだ。あんなに想われるんなら相当に徳を積んだのかもな」
名も知らぬ男はどうやら、独り言ではなく明確に私に対して会話を試みているようだったが、それに言を返すことはない。私はこの女を知っていた。あの人当たりの良さそうな、柔和な笑みを浮かべて恐縮している女の本性を知っていた。
「あの伝承が本当なら嬉しいけれど、思い出されない人の周りに花が降らないのなら寂しい場所でしょ? だから私は犬飼おうかなって」
生前、女はそう言った。
「そりゃまたなんで」
「彼らは飼い主を忘れないから。少なくとも、彼らがこちらに来るまで毎日私の周りに花が舞うじゃない。それなら寂しくないわ。天国から見守っているなんて言葉はまるっきり逆ね」
女は数多のペットを虐待した。懐かせるより安価に、多く記憶に残すために。
今、女は晴れて呪われトップで表彰台にいる。反面教師で人に最大限好かれた私や横の男は下位で引き立て役に甘んじている。なるほどどうして、天国でも正当な評価は下されないものらしい。
一緒になった女は酷い偏食家だった。食事を完食させる試みは戦いの様相を呈していると言っていい。長旅の途中で病気になると大変だぞと言い聞かせても、彼女はあの手この手で話を逸らす。さらに悪い事に、自分はその時間稼ぎに耳を傾ける時間が嫌いではなかった。
「待ってくれ、これは練習なんだ。野菜の選り分けコンテスト2位の恥辱を雪ぎたい」
白磁の皿、盛られた料理。それを前にして真剣な面持ちで言う事がそれか。
「出場した時点で恥だよ。何でそんなのに出たんだい」
「寄った街の催しには出る事にしているんだ。早撃ちから楽器の演奏まで、酔いどれの遊びにも学ぶ事は多い。数を重ねればこの手の競争に共通のコツも掴めてくる」
腰に下げられた華奢な拳銃。部屋の隅に飾られたフィドル。自分の知らない彼女の軌跡を垣間見た気がして、気づけば「例えば」と続きを促していた。こうなれば思う壺だと判っているのに。
「そうだな。ルール、特に反則の規定をよく知る事。楽しむ事。目的を自覚する事。あとは──意表を突く事。自分の得意分野にどうにか持ち込めたら言う事なし」
「あんたにしては普通の事を言う。それに、随分ふわっとしてる」
「戦いの基本だもの。具体的に言うなら……そうだな、皆が短期戦をやる気でいる時に長期戦を仕掛ける、なんてどうだろう?」
彼女はそう言ってにやっとした。皿の上には綺麗な白。
「あんた、それ、もう始まって──いや、最初から?」
本当に偏食家なのか? 歴戦の船乗りが?
彼女は静かに笑って言う。
「嫌そうにしていたら君が来てくれるからね。それで、しばらく私の事を考えてくれるだろう?」
あんた最悪な女だ、という呻き声に、彼女は片目を瞑って応えた。
弱小高校なんかで剣道に出合いたくなかった。
入部して1ヵ月もすれば、部内戦で1位を取れるようになってしまった。新人戦の2回戦くらいまでは、自分に途轍もない才能があるもんだと思っていた。
メン!
3回戦で敗退。才能とやらは、中学で真面目に3年練習した人間には敵わなかった。
負けた日から部活をサボるようになった。部の中で一番強くなったって、何にもならなかった。なんならそのまま辞める気でさえいた。こんな場所でずっと練習したって意味なんかない。剣道なんて無意味だ。
メン!
だけど、目を閉じれば負けた3回戦が映るんだ。
ある日、顧問から部内戦があることを聞いた。
数週間ぶりに握った竹刀で挑んだ部内戦は、俺の1位で決着した。途中で部活を早退し、帰り道を一人きりで歩く。ふとした瞬間、脳裏ではあの3回戦がリフレインする。
メン!
こんなに弱い奴らに勝ったって。俺は3回戦敗退なのに。
翌日は早くに目が覚た。朝食を食べてもなお時間に余裕がある日。いつも通りの時間まで随分余裕があるけれど、ゆっくりしようものならすぐに過ぎ去る時間がむずがゆい。結局すぐに登校することにする。
教室でぼーっとすることも考えたが、何かが俺を剣道場へ導く。そこには一人で大声を出して竹刀を振る先輩がいた。俺が最初に勝った3年の先輩。こんな奴が、こんな場所で、真面目に朝練やってて何になるんだ。後ろからいきなり声をかける。
「先輩!なんで剣道やってんすか。内申点のためですか」
先輩はきょとんとした顔で返す。
「いや?面白いから」
呆然とする俺に怪訝な表情を向けながら、先輩は朝練に戻る。最も基本的な練習、声を出す素振り。その声がやけに響いた。
メン!
またコンテストで負けた。
この界隈で文字書きとして創作を始めて、もうすぐ7年目になる。でも、ずっと鳴かず飛ばずだ。毎回、反省めいた物をSNS上で律儀に言っている。今回も結果一覧の中段辺りをスクショしながら、どこか心の中がグルグルしていた。
自分は悔しさをバネに出来ない。熱の大事さは知っているけど、ある程度自由で心に余裕を持つ方が、自分にとってベストなのを知ってしまっている。自分で自分を監視してしまうのは苦手だ。
それに、この春から就職する事になったから心に余裕も無かった。でも、今の所は毎日定時にあがっているよな。時間はあった。何で書かなかった?決まってる。自分にとって、その程度のものだったんだ。甘えと妥協は確かにあった。
それは悪い事じゃない。あくまで創作は趣味。優先すべきは現実での生活。そのバランスが崩れているなら、創作からしばらく離れた方が良いのかもしれない……。
でも、どうしてこんなに心が物足りなさにかき乱される。
……あぁ、また思い出した。自分は創作すること自体が好きなんじゃない。自分は創作している自分自身に酔っていて、公開して評価されるのが好きで、ついでに競争の場で勝つのも好きなんだ。だから辛さはあるけど、今の状態が楽なんだ。
自分はこれからも逃げたり、逆に尖ったりするんだろう。それを反復横跳びしながら、少しずつ変容していくんだろう。
でも、結果を見た瞬間に湧き出るもの。本気でやった時も、正直ガチれなかった時も感じる想い。あの「悔しい」という感情だけは、いつまでも忘れずに感じていたいと思った。
それが、コンテストに参加するという事だろうから。
テーマ: 虹
いブロック
単調な波の音。寄せて返して終わりのない繰り返し。そこに慌ただしい足音が加わった。
「驚いた。本当に海しか見えない処まで来てるんだ」
甲板から戻ってきて第一声。海しか見えない景色など自分には何度も見たものだが、狭い港から連れ出された娘にとっては始めてのものだった。彼女は興奮した様子で言う。
「ね、ここにいたらさ。洪水が起きて陸地が全部沈んでもあたしらには判らないんだろうね」
「二度とそうしない証として虹があるんだろう」
二度と洪水で命を滅ぼさない。その契約の証として主は虹を天地の架け橋にした。創世記の物語だ。
「そうだっけ」
「ああ。歴史が。いや、人だけが過ちを繰り返すんだ」
天地を遮る水平線、一方的に水面を貫く陽光。目印のない水の砂漠。何度も見た光景だ。
そして海に放り出され、過去を悔いるいつかの自分を見た。遠い過去にあった事で、この自分にも、遠い未来の己にも起きる事だと私は知っている。運命は定まっていると、記憶のボトルキープが告げている。
「何か後悔してる?」
思考を遮る声に顔を上げる。前の自分は独りだった。この娘を己の運命に巻き込んで、何かが変わるのだろうか。
「どうかな。君こそどうだい、陸から離れて。次の港までには一波乱来そうだけれど」
「まさか。自分で選んだことだもの」
彼女は付け加える
「仮に洪水が起きても、この船は残りそうだし。それに、あたしらなら、歴史が繰り返す時は喜劇としてになるんじゃないかな」
「……そうだね。君を選んで良かった」
繰り返す波の音。混じる笑い声。
嵐は近い。かつて自分は桟橋を外され、助けを求めて叫んでいた。
今、この船に雌雄の番はいない。架け橋が要るのなら人の手で造ろうと思った。
今日も虹の橋を渡って獣が来た。下界のアメリカなる地で”愛されて早逝した獣は虹を渡って楽園へ至る”という説話が広まった結果である。実際、ここヴィーグリーズは食べ物と水に満ち、自由に駆け回られる草原がある。獣たちにとっての楽園に相違ない。
だが戦場になることが決まっている。この楽園は火の巨人たちに踏み荒らされ、虹の橋は焼け落ちると決まっている。一度死した者たちだ、どこにも逃げられずに巨人の火に焼かれ続けるだろう。失われる楽園に迎え入れるのは、門衛の役割を抜きにしても許容しがたい。滅びの運命に巻き込まれるのは神々と勇士だけで十分だ。
だが、今日の獣はその判断を揺るがした。鳥獣の群れを掻き分けて、虹を渡り切った少女が私を見上げる。その暗い瞳はじっとりと重く、私をも気圧させた。獣として扱われてきた娘ということになるのだろう。
「来てしまった以上、入れてもらうしかないのです」
唾を飲む。このままどこにも行けないのならば、滅びの末路は変わらない。楽園に在りたいなら、彼らは立ち向かうしかないのだ。巨人たちに敵わずとも、勇士として立つことは栄誉である。
私が角笛を吹くまでしばらくある。鍛えてやろう。門を開き、犬猫を楽園に招き入れる。暗い目が私を見つめた。
「居場所は君たちが守りたまえ。心配するな、それだけの力は与えてやろう」
──それが千年前。いやはや全く、少女のまま、よくもここまで強く育ったものだ。虹の橋の上で、獣達と共にスルトと大立ち回りを繰り広げる程とは。今、鳥獣の牙が足を獲り、彼女の刃が首を両断した。
楽園は戦場にならず、虹の橋が焼け落ちる程度で済んでいる。
暗かった瞳は、今や烈日よりも激しく輝いていた。
「虹の秘宝を探しに行こう」。ぼくらの冒険はそんなありふれた言葉で幕を開けたんだ。空に跨る巨大な虹の麓を目指して、小さな村を飛び出した。怪物退治、迷宮の財宝、内輪揉め。詩人好みの武勇伝から表に出せない汚点まで、悲喜交々の旅路だったとも。ただひたすらに虹を追いかけ、前人未踏の迷宮をいくつも乗り越え、やがてぼくらは最果ての岬に辿り着いた。
空に虹は見えなかった。代わりに幻想的な光が辺りに満ちていて、空も海も草原も、全てが淡い虹色に染まっていた。まるで楽園さ。秘宝は無かったが、あそこは正真正銘虹の麓だ。
ああ、無かった。無かったとも。死に物狂いで探したが、手掛かりすらも見つからなかった。ぼくらは何の成果も得られないまま岬を後にして、昏い迷宮へと引き返した。
そして、そこで死んだ。
どいつもこいつも、英雄詩の種にもならない下らない死に様だったよ。満足した顔で逝った奴は一人もいなかった。ぼくも含めて、ね。
……何百年も前の話さ。ぼくの魂は奇跡的に迷宮を抜け出せたが、そこまでだ。もう未練に引き摺られて進むことも戻ることも出来やしない。来る日も来る日もここで聳え立つ虹を見上げ続けて今に至るってわけだ。
で、行くんだろ、君らは?……だよな。自分の目で確かめないと意味がないもんな。それなら、頼みがある。もし秘宝を見つけたら、帰り際にもう一度ここへ寄ってくれないか。
まさか!宝はいらないよ。ただ、話を聞かせて欲しいんだ。君たちの旅の話を。それだけでぼくは満足できる。飢えた心に一番響くのは、煌びやかな冒険譚なのさ。浪漫ってやつはいつの時代でも変わらない。違うかい?
……ああ、そうだとも。また会おう。良い旅を、冒険者。
祖父の四十九日。寺で詠まれている経を聴いていると、微かに雨音が混じっていることに気付いた。
予報では「通り雨が降るかも」と言われていたし、直ぐ止むだろうか。
私が5歳の頃の、曽祖父が火葬された時もこんな雨が降ってたなと、ふと思い出した。
当時の私は科学図鑑に夢中だった。人体の構造、虫の生態、自動車が動作する仕組み、好奇心が捉えた「なぜ?」に対する絶対的な正答がそこにはあったから。
雨が降る機序を覚えたのも、その図鑑からだった。
その後曽祖父が死んで、親に言われて火葬に立ち会った。火葬場に行く途中、両親と祖父母が乗った車の中で、父がさも常識のような口調で「この雨は涙雨っていって、死んだひいおじいちゃんのことを悲しんで降る雨なんだ」などと、「あの虹はひいおじいちゃんがあの世から『元気にやってるぞ』と知らせてくれてるんだ」などと言うものだから。私は得意げに、雨が降る仕組みを、虹がかかる仕組みを、それらに1人の人間の感情は全く関係ないことを語った。
その時は何も言われなかったが、葬儀の手続きが全部終わった後にきっちり叱られた。当時の私は何が悪いのか理解していなかったから泣きながら反発したけれど、結局最終的には訳も分からぬまま反省させられたのを覚えている。
科学的な正しさと社会的な正しさは別物だと気付いたのは、それからしばらく経ってからで。今では父の言い分も納得できる。
私も大人になったということだろうか、と少し思った。
そして、儀式が終わり、寺を出た時、雨はもう止んでいた。
空を見上げると、非常に薄く、しかし確かに虹の輪郭が見えた。
気付いた時には、それに向かって手を合わせていた。
ろブロック
樹脂と土の香り。悩ましいほど清澄な沈黙が、湿度の高い冷気になって耳朶に澄む。凛々しい雨音が誘ったのは、憂うような目覚めだった。路傍の躑躅は凍えているだろうか、藤たちは石畳の上に崩れてしまっただろうか。白む思考は冴えないままだ。
——恋人の部屋で目が覚めて、最初に花のことを考える。耽美主義の浮気者。わたしたち意気地なしの二人組だから、当然のように昨日も何もなかった。寝る前にひとつキスをしただけ。そのままわたしはベッドで、恋人は革張りのソファにタオルケット一枚で寝た。ああ、彼を起こしてやらねばなるまい。わたしよりずっと上背のある体を丸めているのだから、背骨を痛めてしまう。
ベッドから降りてソファに寄った。朝ですよ、と声を掛ければ、眠たそうな声が返ってくる。
「まだ眠い」
「にしてもベッドに寝直してくださいませ」
彼は体を引き摺るようにしてベッドへと移った。
「このお部屋、時計がございませんのね。今日は雨ですよ。お出かけはありますか?何時に起こしましょうか」
ベッドに身を横たえた恋人の顔を覗き込んで聞けば、
「虹が見えたら起こしてくださいませんか」
なんて腑抜けた返事をされた。眉間に皺を寄せ、心底眠たそうに言った。
「まあ、一日中雨でしたらどうするおつもり?」
「その時は、腹が減ったら起きますよ。夕べ、砂糖がけの檸檬ドーナツを作ったんです。ふふ、これはあなたをもう少しだけ引き止める理由になりますか?紅茶も淹れますし」
彼は、朝の光に細めた目で微笑んだ——あんなに美しい虹を、見たく無いと思ったのはこれが初めて。
「幸せなのに、花に嵐ってこのことだわ。心底嬉しいのに、わたし、いま減量中なのよ」
私の産声は、波立つ水面にだぱんと呑まれた。
藻掻こうにも腕は無かった。それ故わが母の髭に、すがりつく事も能わなかったのだ。唯一許されていたのは、次第に届かなくなる陽光を、未練がちに見上げる事だけだった。
ほんの一度限り吸い込んだ息がこぽこぽと、元あった場所へ昇っていったのを憶えている。それでも必死に、今生にしがみついたのを憶えている。
私を食い物にしようとした毒魚の鰓を噛み千切り、巻き殺さんとした海蛇の喉を絞め上げた。それをこの矮小な躰で成し得たのは、私にわが母と同じ、龍の血が流れている証左であった。
・
海が私を受け入れ、私が空を諦めると、牙は抜け落ち、頭を擡げるには酷く首が痛むようになった。代わりに能く見えるようになった水底へ目を遣り、日々を揺蕩っていると、ある一尾の死に体の白い棘魚が目に止まった。羽衣のような、海におくには勿体ない容をしている。
この辺りでは見ない魚だ。番ではないが、卵を抱えている。大方、昨日の荒天で押し流されて来たのだろう。それが気に掛かり近寄ると、魚は私をちらとだけ一瞥して視線を戻す。ただ黙々と空を眺めていて、私にはどうもそれが憧憬に見えた。
刹那、魚の躰が十色に煌めく。それが光の反射だと気付き固い首を伸ばすと、空を駆ける虹が見えた。見紛う筈もない、わが母の駆けた跡だ。それが空に溶けきると、魚は静かに息絶えた。
私を妙な悔恨が支配し、独善が芽生えた。気付けば、魚の胎に尾を突き立てていた。
・
私はあれにはなれない。空を泳ぎ、彼方を繋ぐことは能わない。だがせめても、この身に繋いだ新たな命だけは、離さないでやろうと決めた。
この小さき者を、落とし仔になぞしてなるものか。
「虹は七色とは限らない。だから好きに書いていい」
清潔な精神病院の個室。幾つもの絵具と一枚のキャンバスを前に、虹を書くように言われた。
虹は文化圏によって色の捉え方が違う。六色という国もあれば、二色という地域もある。説明を聞きながら、何となく気になった色の絵具を手に取る。澄んだ空みたいな淡い青。ホリゾンブルーというラベルが貼られていた。追加で名前もよく知らない緑っぽい色と青っぽい色のキャップを開ける。
てきとうでいい。投げやりな思考をそのまま絵に反映していく。
絵画療法なんてもの最近まで知りもしなかった。通院するのは単に薬を貰うため。薬を飲むのは苦痛を取り除くため。何で苦しいのかはよく分からない。統合失調症が見えない影響を与えているのか、周囲が貼りつけてくるレッテルのせいなのか、両方なのか。
出来上がった虹は緑混じりの青にグラデーションがかかっているようなものだった。医師がその絵を見て何を言ったのかという肝心な部分は覚えていない。興味もなかったからだ。だが、不思議と絵は綺麗だった。芸術の事は分からないが純粋にそう思えた。
絵を描き始めたのは、あの出来事をいつまでも引きずっていたせいかもしれない。障害を代償にした優れた才能とかスキルがある訳じゃない。話題の絵を見て実力の差に打ちのめされるのなんて日常茶飯事。こっちの事情を知らない他人のせいで、絵を描く力さえ湧いてこない日も多い。
でも、何とか生も絵も止めていない。
淡い青で湿った絵筆を置き、出来上がった絵と相対する。
「虹は七色とは限らない。だから好きに書いていい」
七色じゃない虹がやっぱり自分は好きだった。
私は生まれつき、幾つかの層を作って生きてきた。相手に好まれるよう色を変え、醜い私をコンシーラーで隠して。八方美人と言っても良いかもしれない。
そのおかげか、告白も両手で数えきれないほどには経験した。でも、上っ面の私を愛されても何も満たされはしなかった。逆恨みをされないよう、何度も練習した振り方で手切れにした。
“ごめんなさい。私は貴方が思っているよりも良い人ではないの”
今回だって、それで終わるはずだった。
目元に浮かべた雫を、これでもかと彼に見せて、そうして諦めさせる予定だった。
なのに、それでもと彼は食い下がった。
私の目を見て再び「貴方が好きです」と力強く言い放った彼に、少し惹かれてしまった。私を受け入れてくれる気がして。だから、試そうとした。
“本当の私は醜い人よ。貴方のことだって、よくいる有象無象の一人としか見ていない”
「そんな貴方も含めて全部が好きなんです」
歯の浮くようなセリフだと思った。
全部ひっくるめて好きだなんて、そんなの、そんなの!
反吐が出る。
彼は一つ思い違いをしている。
他の色は作り物であって、決して私の色ではない。それは私の描いた絵が好きなだけで、それを作者である私への愛だと誤解しているだけ。
全部なんかじゃない、今ここにいる私の色だけを好きになってはくれないの?
そう言おうとして、やめた。噛み殺した言葉が気管に詰まり咽せそうになる。
これ以上醜さを晒して何になる?
醜い私を好きになる人なんて、やっぱりいなかった。それだけの話。
醜悪で、グロテスクな私を綺麗な七色に塗り替える。私の色を塗り潰す。そうして私は、とびっきりの笑顔を彼に向けた。
“ありがとう。その気持ち、とっても嬉しいわ”
春雷と共にそれは来た。空から醜いデカブツが降ってきた。急激に拡大する勢力、やけに対応の遅い政府ども。市民は"自己防衛"を迫られた。
「この間のトラップがもう解除されてやがる。それも仕掛けた場所全てで。あいつら、少なくても知性とそれを共有できるネットワークがある。物量戦仕掛けられてる現状、何も打つ手がねえな」
「ね、これ見た?投降勧告だって。あいつら、わざわざWordで作って印刷してんだよ。なんかおちょくられてるみたいだね」
雨に濡れてくたくたのA4用紙に一瞥をくれてやれば、世にもくだらない内容が羅列されていた。曰く、全ての人間は手厚く保護されている。曰く、誰一人として此方の被害者はいない。曰く、曰く。
「シェルターの論調は投降寄りさ。事実、私たちに死人は出てないし、他で死人が出たなんて話は聞いてない。それに、こっちは相手を誰一人として殺せてないんだ。どう考えても手加減されてる」
半分聞き流しながら外を見る。しきりに雨が降っている。
「これ以上ここにこもってたら餓死者が出てしまう。提示されてる待遇も悪かないし。今なら桜の香りに包まれてお花見、なんてのもできるかもね」
なァ。固い声がいきなり発される。
「ずっと不思議だったんだ。最初に解除された新型トラップは前線のじゃない、内側のだ。政府の動きに明らかな妨害がある。まるでそこかしこにスパイがいるみたいだ。でも、誰が?外への通信手段は全部使えなくした。人間じゃあ外部と通信できねえ」
すっと目線を向ける。
「てめえ、擬態かなんかだろ。人間は桜の花の香りなんて分かんねぇんだよ」
途端に空は晴れ、デカブツどもが一気になだれ込んできた。轟音を背景に、お前は微笑む。
はブロック
例えば、にわか雨に振られた後に虹を見たら、僕はその綺麗さより一張羅に付いた泥に目をやるような男です。たまに美しいものを見ても、僕には不相応だと背を向けていました。
君もそうだと言いたいわけではありません。僕の卑しさは置いておいて──君の話をしましょう。
君は僕にとって、雨を気にしなくても良い虹でした。それは君が有り余るほどに綺麗だから、ではなく。その輝き方が不格好で、無自覚だったから。でも、だからこそ、僕のくだらない心にすら、受容体のある輝きでした。
君のおかげで僕は今もここにいます。大袈裟だな、と自分でも思いますが、でも本当だから仕方がない。あなたから見える世界の描き方が、あなたの持つくだらなさが、どれだけ僕を照らすか君は知らないだろうな。
そのままでいてくれると嬉しいです。
星を追うことがどれだけ難しいことかは、星を追ったことのあるものしかわからない。虹の端を探すことをクリシェだと笑いますか? 君に誘われたら、二泊三日までなら考えますけど、僕は。
10年後も世界の隅っこで笑っているのが僕の夢です。君がその時なるべく近くにいたら嬉しいけれど。でも、別にいなくたっていい。道は迷うためにあるし、三叉路は別れるためにある。ただ、コンパスだけは勝手に持って行きます。再会を祈ることは誰にも止められないから。
もう少し無駄話を── 雨の日の室内練とか、三日で辞めたメンソールについての話を──していたいのですが、時間が来たのでここまでにしておきます。
さようなら。星と同じくらいの数、また君を思い出すので、よしなに。
追伸: この文章を君が読まないことを願って。僕の祈りは、届かないから僕らしく光るのです。
コンビニの傘立てに置いていたはずの傘は無くなっていた。安いわりに頑丈で長い事使っていた紺色の傘の事を思い、彼奴の事を存外気に入っていたのだという事を知る。
カップ麺とエナジードリンクの入ったビニール袋が大粒の雨を浴びて、ばしばしと音を鳴らした。諦めて歩き出す。後ろで閉まる自動ドアの隙間から有線放送が聴こえた。間違いでなければ、否、間違える筈もない、かつて何度も聴いたロックバンドの曲、そのイントロだった。
いつしか人生から音楽は不要になった。あるいは失われただけだったのかもしれないし、それを不要になったと思い込んでいるだけなのかもしれない。傘が盗まれても平気だと自分に言い聞かせるように。雨で全身びしょ濡れになってしまえば、傘の不在は気にならないのだから。一歩ごとに靴下がぐずぐずと音を立てる。
主任から「このまま仕事が覚えられないようであれば試用期間を越えられない」と告げられたことを思い出す。そうですか、と答えた自分の言葉は乾燥していて、知らない誰かの声のようだった。
スマートフォンを取り出し、音楽配信サービスを検索する。雨で濡れた画面は僕の指を無駄に滑らせたが、昔好きだったバンドのアルバムを何とか探し出し、タップした。
土砂降りの雨は止まない。傘は盗まれ、全身びしょ濡れで、今まさに体温は失われていた。
遠くに雲の切れ間がある。柔らかな陽光が差し込んでいて、今にも虹が架かりそうだった。
虹が発生しやすい時間帯がある。朝か、夕方だ。
いま虹が架かるとしたら僕の人生の朝か夕方、どちらのものだろう。針のように降る雨の中、いつかのロックを聴きながら、長いこと虹を待っていた。
──あの時、奴は何と言ったのだったか。
己の血溜まりに沈みながら、残弾僅かの銃を手に、緩慢な意識の中でふと浮かんだ疑問を巡らせた。
仰ぐ空には虹を纏う太陽。ハロ、だったか。珍しいものを見た。あれが出た後は天気が悪くなる。
そうか。あれは確か、まさにこんな日だった。
よく空を見る男だった。とりわけ仕事中はその動作が多い。
「今日はやめだ」
そんな言葉で任務を放り出した時も、男は空を見ていた。
「はぁ!? 完遂はすぐそこだろ!」
「アレが出た日は人殺しはしねえと決めてる。どんなに大口で重要な仕事でもな」
指を指す先には、ハロ。
「不吉とは聞くが天気が崩れるくらいだろう。そんなことで」
「宗教上の都合だ」
「……神かよ。今にみろ、私がそいつを殺ってやる」
茶化しても有無を言わさぬ姿勢で撤収を始めた男は、続けざまに何か言ったはずだ。だがあの時は憤懣やるかたなしで覚えていない。
あぁ、もう意識も集まらない。どうでもいいか。今思い出したとてそれが起死回生の一手になどなるわけもなく、億が一あったとして、とうにこの命には届かない。
ハロはなおも静かに空に浮いている。この結果を見返すに、男の言うことは事実だったと言えるのかもしれない。何の意味もない結論を結び、現状の責任を全て虹に押し付け睨む。霞むその虹が、その太陽が、その時確かに瞬いた。
瞬間、記憶が繋がる。
──お偉いさんの視察中に粗相する訳にゃいかんだろ。
そういうことか、虹彩。
歯を食いしばる。あの時の言葉を真にするために腕を挙げる。結末は知れない。見届けるのは雨に洗われる骸だ。荒唐無稽は百も承知。ただそれでも、滑るグリップを握り直し、もう見えぬ天に向けて引き金を──引いた。
寝る前に親が読んでくれる一冊の絵本が好きだった。絵本は虹が地面と交わる場所をこう記していた。
虹の麓は大層穏やかな理想郷である。緑に覆われた平原で、家は数軒しかなく、必要最低限のものを皆で分け与えている。虹は理想郷に住むべき者を導く道標である。
空を雄大に跨ぐ曲線。その麓に憧憬を抱いたのだった。
雨音で目を覚ます。机から体を起こし、遮光カーテンを開ける。空は灰に淀み、雨粒がキャンパスの道路を叩いている。時刻は午前五時半。昨日も寝落ちしたらしい。
どうせ役に立たないであろう計算結果を尻目に次のデータセットを入力し、椅子の背にもたれて宙を見る。
かつては虹の麓への憧憬が、幼い自分の手を引いて色々なものを教えてくれた。雪の結晶、オーロラ、蜃気楼。猛烈に感激したのを覚えている。
気象現象に神秘などない、そう気付いた時、既に自分は独りだった。科学が全てに理由を付けてしまう非情さが、何よりも追い求めていた場所が無いと知った喪失感が、自分の心を蝕んでいた。憧憬の後ろ姿を探して、この狭い研究室に迷い込んだ。
行く宛など無かった。
気付くと外に居た。時刻は午前八時過ぎ。軽食を買おうとした矢先。水たまりに反射したそれを見て顔を上げた。
虹。理想郷の道標。
視線は自然と裾野の方へ下りていく。ビルの、町の、山の、海の、その先にある隠れて見えないそれを見据える。
ああ。確かに科学は理想郷を否定した。だが、有って欲しいと思う純朴な心までをも否定したのか?
夢見がちな少女が、私の手を引く。
朝食は奮発して、甘いヨーグルトも付けよう。食べながら、先程の出力を見返してみよう。
足取り軽く立ち去る。
虹の麓は遠い。
にブロック
有名な話だ。虹には始まりも終わりも無く、ずっと遠くの空に浮かぶ円環の一部が地面からはみ出して見えているだけ。
だから、あの虹の根本を見に行こう、なんて戯言に付き合う必要は無かった。ちゃんと現実を教えてやれば済む話だった。けれど私は言い出せず、彼に手を引かれるままに着いていった。思いとどまらせようと開いた口は、代わりに『たどり着く前に虹は消えてしまう』なんて役に立たない言葉をしどろもどろに垂れ流した。
もう随分歩いた雨上がりの午後、乾き始めたアスファルトの上で虹が掠れて見えなくなってしまった頃、続きは次に虹が出たらな、と彼は言った。驚くべきことに彼の中では虹とは見えたり見えなくなったりするだけで、いつもそこにあるものらしかった。歩いた分だけ近づくのだから、次はそこから歩けばいいというのが言い分だった。
そうして何度も虹の根本に向かって旅をした。その度に本当の事を伝えようとして、できなかった。隣町まで歩き、時たま電車に乗ってみたり、行った先で疲れて交番のお世話になってみたり。私だけが奇妙だと知っている、そんな二人旅を私は存外気に入ってしまったらしかった。
結局、転校が決まるまで私は真実を伝える事ができなかった。別れ際まで、離れていく車に手を振る時でさえ、彼は虹が終わり、そして始まる場所があると信じていたのだ。
荷物を運び込んだ新居で、私は別れの手紙の封を切った。彼がくれた封筒は我の強さに似合わず皴やよれの一つすら無かった。
「あの虹の根本で、またいつか」
ただそれだけが書かれた紙きれを抱きしめて泣いた。有名な話だ。いずれ彼も気づくだろう。でも、そんな場所がどこにも無いと、今は私だけが知っていた。
突然の雨を避けて入ったカフェは、静かでゆったりとした雰囲気が流れていた。由佳理が好きそうだなと反射的に考えると同時に、どうしても昨日の事を思い出してしまう。
「私ね、結婚する事になったの」
今までありがとう、と柔らかく透き通った声。由佳理は幸せに満ちた優しい笑顔でそう言った。
おめでとうございますと、自分は言った。本心からの言葉だった。でも。
「ごめんね。……君も早くいい娘見つけなよ。こんな年上にいつまでも構ってないでさ。」
良く晴れた日だった。けれども、一緒に居るだけで満ち足りていた自分の心が急激に暗くなっていったのを覚えている。
分かっていた事だ。自分はまだ高校生で、一回り以上も離れた彼女には子供扱いされていた。それを知りつつも、夢見た事が無いと言えば嘘になる。それだけに何もかもを見透かされた上で、気を遣わせてしまったという事実が本当に恥ずかしかった。
うっすら濡れた髪を無造作にかきあげ、今しがた届いたホットコーヒーを啜る。思い返している内に晴れが嫌いになりつつある自分を自覚した。理由も単純。ガキみたいに分かりやすい自分が情けない。
しかし、狙ったかのように陽の光は店内に射し込んだ。にわか雨はあがり、澄みきった空に綺麗な虹が架かっている。
……確かに、自分はまだガキだ。だけど、生意気なのも分かっているけど。
由佳理も、この空を見ているんだろうか。もしそうなら、あの虹と同じくらい鮮やかな表情で、元気に笑っていてほしいな。幸せになってほしい。
今度はしっかり意識してそう考えている自分が居た。
土星第6衛星、タイタン。探査機による調査で微生物が発見され、大がかりな有人調査が始まった。そして送られた我々は巨大な蛇のような生物に追われていた。
「聞いてないですよこんなの!」
「落ち着け、洞窟の出口は近い。探査車で逃げれば追いつけまい」
蛇のような、といったが大量の触手が集まり長い蛇状になった生物という具合で、頭部の大きな単眼はこちらをずっと凝視してくる。触手を奇妙に変形させ複雑な洞窟を素早く駆ける。体長は概ね8m程度だろうか?宇宙服の音響センサーが歯軋りのような鳴き声を拾う。
「俺達喰ってもたぶん消化出来んでしょ!」
遠い土星軌道に送れる重量は少なく、調査班は二人だけ。無人探査で生命が見つかったリゲイア海付近に宇宙船を着陸させ、探査初日の事だった。
黄色い空には薄く土星が映り込む。リゲイア海はほぼ純粋なメタンの「海」。「大地」は氷が主成分で、着陸地の付近には「火山」、溶岩ではなく水を吹く山もあった。地表の平均気温は-180℃だ。
火山の調査中、氷壁に幾つか洞窟を見つけ、そこでメタンの雨が降ったため雨宿りついでに潜った訳だが……
「よし、出れた……!?」
探査車の周りには同じ蛇生物が5体、とぐろを巻いていた。
「隊長……!」
後ろを振り向く。蛇生物は、こちらを、見ていない。海の方を見ていた。
探査車の周りの蛇生物も、そちらを見ていた。1体は触手の一本を海の方へ伸ばし、歯軋り音を立てている。
海を見る。何もない。光学センサーを最大にする。
大気中のメタン雨滴が太陽光を散乱させ、海上に広大な赤外線の「虹」を作り出していた。
我々は彼ら家族としばしの間それを眺めた。これが、地球外知的生命体との初遭遇であった。
煉瓦造りの狭い路地の中を、僕はぼんやりと歩き回っていた。
学業も趣味も、ここの所全部が行き詰まっていた。漫然とした無力感が常に体を包んでいた。無為に足を動かしていると、袋小路にぶつかる。行き詰まったものがもう一つ増えてしまった。へなへなとその場に座り込む。
濃紺の夜空を見上げると、無数の星がぴかぴか光っていた。
「誰か〜、力をくれ〜〜」
思わず情ない声が出る。一体誰が、何の為の力をくれるのか。具体的なビジョンも何もない鳴き声が夜空に吸い込まれる。
ふと、天頂の星がキラリと明滅した気がした。その星を注意深く見る。また光った。それはだんだんと大きく…自分の方に向かってきた。眩い光に思わず目を閉じた。
目を開け手元を見つめる。虹色だ。手だけじゃない。全身が虹色に光り輝いている。
衝突した星スター。虹色の体。そして先程からその辺に流れる軽快な音楽。間違いない。今の自分は無敵状態だ。そう思った途端、体からモリモリ力が湧いてくる。
ファイティングポーズを取り、目の前の煉瓦の壁を一発で叩き壊す。残像を残し町を駆け抜ける。今の自分なら何でも出来る!心の芯から虹色が輝く。一つ二つ、ステップを踏んで、家々を軽く越す大ジャンプをかまし
布団から跳ね起きた。
後々考えると、ただの破茶滅茶な夢であった。それでも、今日は目覚ましの前に起きられた。朝ごはんもしっかり食べられて、服も髪もバッチリだ。手は肌色に戻ったけど、無敵時間はまだ続いているのかな、そう思った。
玄関の扉を開けると、空には虹が輝いていた。
「風は西から東へ流れている」
雨宿りをしていたバス停で、先客であるレザースーツを着たお姉さんは僕にそう言った。
「……そう、ですね」
「今の時間だと、太陽は西側にある」
「そうなんですか?」
「多少ズレるかもしれないけどね」
お姉さんは雫の光る濡れた髪をタオルで拭いていた。この東西に伸びる長い道で、雨をしのげる場所は少ない。
「それでだ、少年。太陽を背にして、背景がまだ雨が残る中、雲で暗くなった状態で、何が起こるかわかる?」
僕が最近授業でやった答えを言うと、もったいぶっていたお姉さんは悔しかったのか拗ねてしまった。
「……最近の子はよく勉強してるね」
「授業でやったばかりですから」
「中学生?」
「そうです、最近入学したばかり」
「なるほど、一番楽しい頃だ」
「お姉さんは、楽しくないんですか?」
お姉さんと一緒に雨宿りをしているバイクは、よく知らない僕でもかっこいいと思えるものだった。
「……どうだろうね、最近は逃げるために乗ってるのかも」
そんな話をしていると、次第に雨脚が弱まってきた。
「少し、時間はあるかい?」
外を見ていたお姉さんは、僕に呟いた。
「何ですか?」
「ちょっと被写体になってほしい。報酬として出せるものは……私のポストカードか個展のチケットぐらいしかないけど」
そう言って、お姉さんはよく拭いた手でバイクのトランクを開けて中のものをいくつか見せてくれた。
「プロの人なんですか?」
大きなカメラを取り出したお姉さんは僕の質問に曖昧な笑みを返した。
「全部狙ったものだけだとうまく行かないし、こういう縁を大切にしたくて」
屋根を叩いていた水の音がまばらになって、外から差し込む光は少しづつ暖かくなってきていた。
ほブロック
「お客様は弊社ゴールドカードでのGoogle Play平均年間利用額が100万円を超えていたため、今更新にてカードをアップグレードさせていただきます。特別な1枚との楽しいゲームライフをお過ごしください!」
という連絡書と共に入っていたのが、七色に光り輝くこの『SSRカード』とかいうシロモノだ。何なんだろう。どういう皮肉なんだろう。でもまあ、こんな嫌味程度で真人間になれる奴にソシャゲ廃人なんて務まらねンだワ。ゲームは遊びじゃねえんだよ。
気付けばもう15時、ガチャ更新の時間だ。今回は……引く。完凸した時の性能が破格だ。善は急げとアプリを開き、ガチャを引くためのジュエルの購入画面に向かう。届きたてホヤホヤのカードを選択して……とここで、「10回購入する(SR1回確定)」という見慣れないボタンが追加されていることに気付く。
今買おうとしているのは1セット8,400個で9,800円もするまとめ買い専用のジュエルなわけだが、それを10セットも買うということか?狂ってやがる。こんなもん誰が買うんだよ。だとしても俺は買うに決まってるだろ。どうせいつか使うもんなんだから、まとめて買っても変わらん。そうは言っても指は少し震えていたが、構わず購入ボタンを押す。
なんだって!?
SSR15,000個だと!?
これだけあればあの復刻ガチャも引けるし、推しの衣装パックも買える!
もっと引けば!もっと!!!
と、これがこの半年俺が素麵生活を続けている理由の全てなわけだ。ハハハ、人間こうなったらおしまいだな。そういえば腹減ってないか?中トロの刺身でも食わないか?これもクレカのポイントで買ったやつなんだが……。
1984年、冷戦も佳境に入ってきたらしい。こんな時期にパイロットになってしまったが、アラスカの空軍基地は存外に居心地がいい。
「知ってるか、少尉。おれたちにとって、虹は空にかかるものじゃないんだ」
霧雨が休憩室の薄い窓を濡らす中、パイロットスーツの締め付けを少しでも無視しようとコーヒーに口をつけたぼくに、大尉は語った。天井の赤い非常灯が厭に目につく。
「それは 」
どういう意味ですか。その言葉を吐く前に、非常灯が回る。ベルがけたたましく鳴る。スクランブル発進だ。なにかを考える前に、大尉もぼくも部屋を飛び出す。熱いコーヒーがこぼれるのも構わない。
チタン合金の鷲に飛び乗り、手早く緊急発進の準備を終える。滑走路に出る頃には雨も止んで、雲間から陽光が差していた。エンジンを吹かすと、轟音とともに爆発めいて前進する。二羽の鷲が、空に飛び立つ。
「方位270、高度30000フィートまで上昇」
雲の隙間を切り裂いて、ぼくらは成層圏まで登る。レーダーに反応はない。
「奴さんら、もう帰っちまったみたいだな」
「そうですね、大尉」
ぼくら二人だけの成層圏。ほとんど黒の空を、少しだけ飛んでから帰ってもバチは当たるまい。そう考えて、ぼくは大尉の横に機体をつける。
「冷戦も共産主義者もクソだ。だがな」
無線越しにそう言った大尉は、機体をくるりと一回転させ、背面飛行に入る。
「少尉、あんたも下を見てみろ」
頭に血が上る感覚に耐えながら、ぼくも機体を反転させる。雨後のアラスカに丸い虹がかかっていた。
「あの虹を守れるなら、なんでもいいと思えて来ないか?」
そう。確かに虹は空にかかるものじゃない。ぼくらが守るべき大地にかかるのだ。
引出しの奥から転がり出た極彩色。何かと思って手に取れば、それは七色のロケット鉛筆だった。
小五の頃だったかな。誕生日に隣の席の友達がくれたもの。「これ一本で虹の絵が描けるんだよ!」なんて言葉が記憶に残ってる。その子の名前にも虹の字が入っていたから。
友達らしい友達がほぼ居なかった私への、貴重な誕生日プレゼント。本当に嬉しかった。今思えば、誰とでも仲良しだった彼女にとって、私は単なるクラスメイトの一人。「友達」と呼べるほどの関係ではなかったかもしれない。彼女の全方位への優しさが、当然の如く私にも注がれただけ。だとしても、それは勿体ない程の奇跡だった。
七色の芯が一本に纏まった鉛筆。合理的なようで、使った芯を一々後ろに繋ぎ直す必要があるのが不便この上ない。そんなこんなで結局、当時の形を保ったまま、こうして机の中で眠っていた。
記憶という物は、ロケット鉛筆に似ている。人はどれだけ得難い経験をしても、やがて当時の想いを頭の後ろに追いやってしまう。でも、あくまで追いやっているだけ。キッカケさえあればこうして押し出され、再び顔を出すことがある。脳のメモリの無駄遣い。本当に非合理的。
なんとなく、夏空に鉛筆をかざしてみた。遠く澄んだ青色に、チープで喧しい七色がアンマッチ。思わず苦笑が漏れる。今や彼女は遠い存在。空の、いや、画面の向こうの住人だ。でっかいバンドやるって夢、叶えたんだね。
きっと彼女は、パンピーの私には想像もつかない経験をして、七色どころじゃない輝きを頭に詰め込んできたんだろう。その片隅で良いから、私と共有した時間が残ってたらいいな、と思う。
「忘れてやらない」
私は、何回でも強がって笑うから。
私が虹になって3年が過ぎた。私の下にはいつもと変わらない光景が広がっている。ジャガイモの花畑と、その脇の農道を元クラスメイトの女の子が原付で爆走している。
率直に言って、彼女はバカだ。
彼女との出会いは4年前。私の足が虹になり始めた頃だ。将来の夢は無かったけど、流石に虹になる選択肢は選びたくなかった。入院してありとあらゆる検査を受けたけど、治療法は見つからず、元気な内に少しだけ日常生活に戻れる事になった。
私が車椅子で登校した時、事情を知った友達はみんな泣いていた。だけど彼女はバカなので、私の足を見て綺麗だと褒めていた。当然、私の友達から怒られていた。
放課後、彼女は申し訳なさそうに謝りに来た。けれど彼女はバカなので、私が許すやいなや、すぐに虹に触ってみたいと言い出した。
再入院すると私は暇を持て余すようになった。毎日遊びに来る彼女は格好の話し相手だったけれど、彼女はバカなので、虹の話ばかり続けていた。
虹は私の全身に広がり始めた。彼女はその虹の付け根を見たいと言い出した。彼女はバカなので、私が服を脱ぎだすと、顔を赤くして私を止めた。
医者から今夜が峠だと言われた。私はいつもと変わらず彼女が遊びに来るのを待っていた。なのに彼女はバカなので、私の友達を病室に呼ぶだけで、彼女は病室まで来なかった。
初めて病室に来た友達の前で、私は虹になった。彼女はバカなので、私の最期の願いを人伝いで聞く事になった。
『手を握って欲しかった』
彼女はバカなので、3年経った今も届く事のない願いを果たそうとしている。今日もまた、私の虹の麓を目指して原付を走らせている。
テーマ: 刀
αブロック
祖父は居合道の師範だった。無口で厳格で、私の記憶にあるのは仏頂面ばかり。高校生の時、そんな祖父が道場を畳むと聞き、頼み事をしに家へ押しかけたことがある。
「居合刀を一振り譲ってほしくて」
そう切り出すと祖父の顔が険しくなった。当然だ。刃がない刀とはいえ軽々しく人に渡せるものではない。どうしてだ、と低い声で訊かれ、意を決して答えた。
「私、コスプレが趣味なの」
祖父の頭上に疑問符が浮かんだ。
一から説明した。コスプレのこと。私の好きなキャラクターのこと。真に迫った表現のために衣装を自作したこと。手製の小道具やオーダーメイドの新品では納得できず、使い込まれた刀が必要だと考えたこと。
「俺には分からん世界だ」
祖父は呟き、そして真っ直ぐ私を見据えた。
「ひとつ、条件がある」
*
帰省の折に祖父の家へ立ち寄ると、相変わらずの仏頂面が私を出迎えた。世間話もそこそこに鞄から取り出した写真の束を渡す。
衣装を纏ってあの刀を構えているのは大学時代の同期だ。私は就職を機にコスプレを辞めたが、彼女は今でも続けている。
『不要になったら刀を誰かに譲る』。それが祖父の課した条件だった。『使われる為に作られた刀に埃を被らせておくのは、刀に対して不義理だ』と。
刀を手放したことに後悔は無いが、時々思う。私は、義理を果たせたのだろうか。居合刀を全く別の刀として扱って、本来とは別の用途で使う行為は、敬意がある行いと言えるのだろうか。答えは未だに出ていない。
写真を捲る音が止まる。道場にあった頃とも私が使っていた頃とも全く違う、別物としか思えない刀を見て、祖父はゆっくりと頷いた。
「良い相手に託したな」
その一言で、少し救われた気がした。
部屋の片付け中、戸棚の奥底から、埃をかぶった木刀を見つけた。
中学生の頃、修学旅行の時に2000円ほどで買った木刀だ。
こんな木刀に2000円の価値があるとは、多分当時も思ってはいなかった。
2000円あれば、数ヵ月は菓子の買い食いに困ることはない。新品のゲームを買うには足りないけれど、中古のカセットくらいなら買える。中学生時代の自分にとって、2000円というのはそれくらいの価値だった。
それでも木刀を買ったのは、その場の熱に引っ張られたから。友人がみんな買っていたし、自分だけ買わないのも違うなと感じたから。
その後、木刀を使うことはほとんどなかった。バスの中で先生に「危ないから木刀を振り回すな」と釘を刺されたし、旅行から帰ってきてからは木刀はすぐに飽きられたから。
最後に触ったのは、買ってから1週間後くらいだった気がする。本当に、その程度の価値でしかなかった。
そして、今に至る。
大学生になった今、もう木刀なんて使う機会はないだろう。かといって、粗大ごみに出すのも気が引ける。
それなりに長い時間考えたあと、とりあえず写真を撮って、「懐かしいものを発掘した」と中学の友人のグループLINEに共有した。
それから、更にしばらくして。
片付けが終わった後LINEを見返すと、40件の通知。
私の写真を皮切りに、当時を懐かしむ流れになっていたらしい。日付を決めて集まらないかという誘いまで来ている。
仮に集まるとしても木刀は持っていかないだろう。荷物になるのは目に見えている。
結局、こいつは最後まで使われないままだ。
それでも、確かにあの時2000円をこいつに払うだけの価値はあったのかもしれないなと、少しだけ思った。
太閤秀吉によって布告された刀狩令は、時代を乱世へと揺り戻した。この令は伝来した邪教たる壊神教、またの名を“壊れし神体の教会”の武具を取り締まるものであったが、実質的には豊臣がその技術を独占することを意味していた。壊神教を早くも受容した貧民の怒り、技術の簒奪を妬む大名の不満。世を安定させたと思われた天下統一は、秀吉自身が壊神のカラクリ刀に惨殺されたことにより終わりを迎えた。
「大名共は職人を取り立てカラクリの質と量で優位に立とうとしている。豊臣の残党も死に物狂いで再結集を図る。坊主すら息を吹き返し“壊神こそ仏そのものである”と説き教勢を拡大。カラクリで武装した農民や野良侍の一団が各地に出没。帝が妙な動きをしているとの噂もある」
「博識だな。刀とは思えぬ」
「お前のその態度は好かぬぞ。あの傲慢な猿によう似ておる」
言葉を紡ぐ怪刀を手に侍は道を行く。辺りには武士たちの亡骸が転がっており、鮮血がつい先ほどまで燃えていた命の灯を主張する。死体の中には身体をカラクリと融合させた機兵さえが含まれていた。
「秀吉はお主が切って捨てただろう。それで、私も追っ手に狙われる羽目になった」
「人よ、壊神の創造物をかような口で語るな」
「傲慢なのはお主であろうな」
この一者一刀が向かうは京の都。今まさに百の炎が上がり、千の刃が交わろうとする辻である。天下取りの野望を内に秘めた各地の強者が一つの都へと合流しつつあった。
「なんとでもいうがいい。もうじき明白となる……天下を取るのは人ではない、壊神の世が訪れるのだ!」
安土桃山から絡繰新京へ。新たな時代が歯車の音と共に始まろうとしていた。
この血みどろの戦場で、命乞いを審査するほうの立場を得た。刺客の女との斬り合いに辛勝。女は拘束され、処刑の手前で弁明が許された。
「最後に言いたいことはあるか」
女は口枷を外される。すると少し考えるように目を動かして、
「太刀筋に含まれる『血筋』の部分」
そう切り出した。は?何を言い出すんだ?という不思議な空気が場を支配する。最期の言葉がこれだったらあまりに間抜けだから、もう殺しても良いんじゃないか?とは、思わなくもなかった。
「わたしを半殺しにした少年の太刀筋、見覚えがあった。あれはどう見ても翠峠家の秘術を帯びている。違うか、少年」
女は、立会人として呼び出された僕のほうを、首だけ動かして見た。
「翠峠家、ですか。なんのことか分かりません。僕の師範は夏目の流派で、きょうび何処にでもいますよ」
「きみが剣を誰に習ったかは関係ない。きみ、出身は」
「捨て子ですから」
「いつどこに捨てられていたかは?」
「15年前の4月、狭霧の森の麓の神社に」
「それは、きみのご両親にあたる人が、ひみつの褥でねんごろしてた時期の丁度10ヶ月後にあたる」
「気持ち悪いので殺してもらっていいですか?」
「待って!」
処刑人が刀を納める。やや不服そうだった。
「翠峠家の秘術を帯びた太刀筋は、血筋によってしか再現できないんだ。この大戦の火種は翠峠の財産、巨万の富をめぐる戦い。もしかしたら君が—正式な跡取りかもしれないんだぜ?」
なにを。言っているのかと。不安になった。
「君の御母堂が、私の唯一で最後の上司だ。探し出して、護ってくれと言われた。少年—」
—僕は次の瞬間、彼女の命乞いを口にしていた。
βブロック
路地裏。暗闇に引き摺り込まれるセーラー服の娘がいた。力任せに引き摺る3人の黒服は前を開いており、日常的に銃を扱う者独特のタコが見て取れる。助けるべきと判断した。
颯爽と屋上から駆け下り、娘を引き摺る腕を両断する。
「逃げませ」
血振りに合わせて声をかけると同時、泣き腫らした目の娘が表通りへ駆けていく。白昼堂々の犯行であるから、拙が保護に向かわなければ再び暗闇に引き摺り込まれよう。目前の黒服を即刻片付ける必要があった。
娘を背にしている。貫通力の高い拳銃が災いして、そうそう弾丸は放てない。ならば、ここは刀の間合いである。一太刀目、片腕を無くした男の頸を落とす。倒れ込む死体を足蹴に飛び上がって二太刀目、次なる首を断ち落とす。銃口が拙を出迎える。射線が娘から外れた今、発砲を躊躇わせる理由が消えたのだ。
凶暴な笑みで引鉄が引かれる。放たれた弾丸が、突き出された刀の腹で軌道を逸らされる。弾丸は拙の耳を少しばかり削って壁に穴を穿ち、最後の黒服は刀の錆となった。
逃げる娘に縮地で追い付き、その肩を叩く。
「安心召され、追っ手は全て斬り倒し申した」
「貴女、一体」
「拙は刀に御座る。武士道とは死ぬことと見つけた人でなし衆の、最後の生き残りに御座る」
拙が単独であり、助けられたことが安心できる要素ではない事を悟って、娘は再び震え出した。その両手をそっと握り撫擦する。再び立てるように、そして怒りと殺意を滾らせられるように。
「的になった以上助かりませぬ。助からぬならば死中に活を得ましょう」
「貴女、同じ年頃なのに随分と物騒ですのね」
よいでしょう、と娘が立ち上がる。死地に立つは喜びであり、拙の心は闘争の予感に沸いていた。
人間は身長の倍近くはある岩を一刀両断出来るだろうか?
答えは簡単、不可能だ。
だというのに、私の師匠は不可能を可能にしてくる。断たれた岩を背にし、あっけらかんとした表情で立つ師匠が今も脳裏に焼き付いている。
「力任せに切ろうたって、そう上手くいくはずがない。こういうのは必ずタネがあるもんだ」
師匠は自身のことを手品師と言っていた。
常に刀を持つ手品師が何処にいるんだ。そもそも、そのタネは何なのかと問い詰めると師匠は決まってこう言う。
「手品師はネタバラシをしないもんだ。商売あがったりだからな」
体のいい言い訳だと思った。けれど、師匠の目があまりに真っ直ぐで信じてしまいそうにもなる。
「俺はお前が思っているよりも弱い。圧倒的に。だから、自力で無理なことは色々なモノに頼ることになる」
例えば、お前とか。
師匠は私が何か途轍もない力を持っているのだと信じていた。それに悪い気はしなかった私は"成長したら師匠のことを守ってやりましょう"と、生意気にも約束した。師匠も"それは有難いな"と笑ってくれた。
なのに去年、師匠は何処かに消え去ってしまった。置き手紙もなく、朝起きたら山小屋には私一人だけだった。
私は鍛錬を続けた。
いつか師匠が帰ってきた時に約束を果たすため。それだけを拠り所として、この生活をやり過ごしてきた。
そして今、私の前には真っ二つの岩が土煙を上げて存在していた。
別に、私が努力の末に覚醒したわけじゃない。1年間、ただ力任せに岩を傷つけて、蓄積されたものが一気に表出しただけ。
……やっぱり、タネも仕掛けもないじゃないか。師匠の言っていた私の強さとは何だったのか。疲労のせいか、苦笑いで立つ師匠の姿を幻視した。
男はいつの時代も武士である、という祖父の言葉を思い出す。旧時代的だと笑うには真面目で、幼い僕は比喩として汲み取って、刀に宿る勇気だけ、腰に差している。
本当に?
安っぽいバーの暗い照明の中、玩具みたいなグラスを傾けて、目の前で眠りこけているきみを見る。酒を飲んでもあまり笑わなかったのは、安酒が不味いからではなさそうで。
君が死ぬつもりだと、僕はとうの昔に気づけている。最初は勘違いだと思っていたけど、日に日に全ての世俗を断っていき、遺書めいた言葉をいくつかSNSに残した君の姿は、それをただ確信に変えていくだけで。
──僕が辞めて欲しいと言ったら、君は止まってくれるのだろうか。そんなことを、今日一日考えていた。
僕の誘いを受けて、一緒に飲みに来てくれたなら、可能性はあるはずだけど。でも、なんでもないように笑って、次の日から連絡が付かなくなったらどうしよう。言えないうちにお酒を飲んでしまったし、忘れてしまうかもしれない。勘違いかもしれない。今じゃなくて、またの機会にしたっていい。
もし拒絶されたら、言い方を間違えたら君を失うのだ。そう考えると、どうしても、相応しい言葉が見つからない。
それでも、言わなくちゃ。
「あの、さ」
「うん?」
とろんとした──していた──目が、こちらを見る。その目が、あんまりにも冷めているものだから。
「……男は、いつの時代も武士なんだって、じいちゃんが言ってた」
「……何それ」
少し笑って、君はまた眠る。僕は君を起こすわけにもいかなくて、それ以上何も言えずに、氷だけになったグラスを傾ける。
腰に差した刀は錆びついていて、もう鞘から抜けそうにない。
悪人、悪鬼、悪霊。それらが政府の銃に捻じ伏せられて久しい現代において、私人の刀が日の目を見ることはない。それが指折りの名家であっても、何ら変わりはない。強いて言えば、帯刀が既得権益の享受を示唆している程度だ。
にも拘らず、俺の家は時代に取り残されていた。武人の誇りを振り翳し、折角持て余した暇を、一生使わない刀術の鍛錬に費やしている。そしてそれは、跡取り息子の俺に対し強いられたものでもあった。
余りに前時代的な日々に嫌気のさした俺が、家を飛び出してはや数年。漸く向き合う覚悟を決めて戻って来た俺を、父は何を言うでもなく中庭に連れ出した。言わんとすることは解ったし、この数年で何も変わっちゃいないと理解するにも十分だった。
◇◇◇
「……強くなったな」
父は血の滲む腹を押さえ地に伏せた。刀も取り零している。いや──
「それ、ハリボテだろ。どういうつもりだ」
「お前は正しい。俺達はもうこの時代に必要ない。だがそれを認める事もまたこの時代が許さない。形ばかりの強者が国家に遍在するのが、政府の描く平和の形だ」
「だから、代わりに俺の手で終わらせようとしたのか」
黙って肯く父。
「なら、始めからそう言えってんだよ!」
俺に蹴り飛ばされ、父は転げながら呻いた。
「子の前だろうと、馴れ合いは好かん」
「だから誤解されてもしょうがないってか⁉甘えるなよ!あといつまで蹲ってんだ!」
俺は致命の刃を通してはいない。この男が勝手に死んだ心算でいるだけだ。
「誇りを捨てろとは言わねぇ、だがまずは言葉だ。力はいつでも揮える、でも言葉は今しか交わせないんだよ……解ったらそこに座ってくれ、親父」
ハリボテの刀を拾い上げ、鞘に納めて置いてやった。
その敗北以来、剣技に生涯を捧げて来た。喉元に突きつけられたサーベルの切先、その銀の煌めきに魅入られてから、ずっと。
嘘吐きな女だったが、その腕と刃の鋭さだけは真実だった。だからただ追いつきたい、いつか勝ちたいという一念で洋刀を握っていた。彼女が旅立って行方知れずになっても記憶の輝きは鈍らなかったから、また戦える日が来ると信じて腕を磨いていた。
鍛えた腕を買われて故郷を出てからは、刀を提げたあの後ろ姿を探し続けた。少しずつ雇い手が減っても、蓄えが底を尽きかけても、刀だけは手放さなかった。流浪に身を窶して数年、酒場でその姿を見つけたと思った時には震える声で決闘を申し込み終えていた。
彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに「互いに五歩離れて得物を抜くところからでどうか」と応えた。昔と変わらない笑い方だった。
表に出る。冷たい風が吹き抜ける。頭が冷えて、忘れかけた戦いの感覚が戻って来る。
スリー・カウント。数え終わると同時に地を蹴って、刀を抜く。まだ向こう側にあの銀色は見えない。まだ──
その手にあるのは、何だ?
破裂音。バランスを崩して倒れ込む。転がるサーベル。足が熱い。
少ししてようやく撃たれたのだと理解する。銃を降ろして歩み寄る音。
「なん──」
「実を言うとこれは飾りでね、刀身はもう錆びてる。刀の時代は終わりつつあると思ってね、最近はもっぱら銃なんだ」
「……」
「でも、さっきは久々に肝が冷え──」
「いたぞ! あいつだ!」
叫び声に応じ、幾人かが銃を抜く気配。彼女は一つ舌打ちをして、本気の焦燥を顔に浮かべる。これまで見た事がないような。
嘘ばかりつきやがって。
刀の時代なんて、もう完全に終わってるんじゃあないか。
Γブロック
何はともあれあの陽が2つに割れてから、この星は過ごしやすくなった。半陽は遠ざけ合うようにこの星を挟んで真反対の位置で落ち着いたらしく、繰り返される24時間の昼と夜が丁度半分になったのだ。元より組成だけは地球と似ていたこの星に地球の生命が暮らす土壌が生まれたことに人々は狂喜乱舞した。
僕はその馬鹿騒ぎに乗りもせず、半分になった衛星の映像を眺めていた。上から下に裂けていく星に、ある日出会った男の事が思い出された。長すぎる昼の日差しに晒された、どこもかしこもひび割れた荒野。この星ではありふれた平らな広場でそれを振っていた彼の事が。
「刀だ」
なぜ剣を振るのかと問いかけた僕に、彼はまずそう返した。ケンではなく、ツルギでもなく、カタナなのだと。刺し貫くものではなく、力で断ち切るものでもなく、切り裂くものなのだと。どれも剣という大分類に入るだろうと思ったが、彼にとっては大きな違いがある、という事らしかった。つまり、彼は斬ろうとしていた。しかし何を、何のために、。分からず困惑する僕の姿はきっと見慣れたものだったのだろう。彼は顔色一つ変えずに続けた。
「全ての物事に理由が必要な訳じゃない。強いて言えば求道かな。技術に限界は無いから、ただ極めるためにこうしてるんだ」
「じゃあ、極めたらどうなる?」
「さあ。適当なところで満足して、何か凄そうな事をして極めたって事にするでしょ」
さらりと言った彼は茫然とする僕にちらりと目を向け、棒で天を指した。
「でもまあ、極めなくてもあの星くらいは斬れるんじゃないかな」
輝く衛星、光熱の星に向けて、彼は一度だけ刀を振った。その姿を今も憶えている。
彼は今も、どこかで刀を振っている。
1945年9月、GHQは全国から刀剣を掻き集め、ガソリンで焼き、海に捨てた。戦時中に連合国が呪い極まる妖刀魔剣の脅威を知ったからで、核兵器もその抑止・報復のためアインシュタインが開発を提言したのだ。
だが一本の妖刀が富士山地下洞窟にて秘匿され、一本の魔剣がホワイトハウス大統領執務室にて保管されていた!
「何故、今なんだ?」
2024年4月、ホワイトハウスは静まり返っていた。そこら中に斬殺死体が転がっているのに警報すら鳴らない。妖刀の力だ。
「今は無いと思ってたろ?」
この場に立つ者はただ二人。魔剣を正眼に構えるバイデンと妖刀を上段に構える岸田だ。
「生き残るのは一人だけ!」
岸田は高笑いしながら血濡れた妖刀を手の内で回す。すると世界が歪み、十体の岸田が現れバイデンに襲いかかる。
大統領は後ろに跳びながら魔剣で己の手首を斬る。飛び散る血は煙となって拡散し、襲う岸田を拘束、更に十字の柱に変形し十の磔死体が林立した。
妖刀を持つ岸田は、いない。いや、バイデンの影から現れ妖刀を心臓へ突き刺した!
「終わりだ!」
「まだだ」
バイデンは己の首を斬る。宙舞う首から胴体が生え、スーツが形成され、魔剣が手の内に戻る。心臓を刺された胴体からも首が生え、同じ顔の人物へと突進する。
魔剣はそれを逆袈裟に斬るが、突如それは発火、爆発!仰け反るバイデンの口内に妖刀が差し込まれ、脳幹に貫通!
「終わりだと言った!俺の、日本の勝ちだ!」
(いや、引き分けだ)
魔剣は所持者の死を悟り、最後の役目を果たした。すなわち、妖刀の力により通信不可能な中でホワイトハウス地下の核を無線起動させたのだ。
最後の妖刀と魔剣が失われた。核兵器は報復を果たした。
力がある者は、己の在り方を己で決められる。左腰に差す打刀こそが、その「力」である。
私の眼の前には殿がいて、私の後ろには家臣がいる。殿はいつになく意気消沈した様子で、肘掛けにもたれかかっていた。
「殿、ご決断なされよ。報復は成るのか、成らぬのか!」
彼がまだ洟垂れの小僧だったときから、殿の傍に居た。だからこそ、今の彼は見て居られない。だが、見ねばならない。
「……先の我が息子の葬儀に、鎧を着て参った者がおったな」
「皆、報復を望んでおられる」
殿は黙ったままだ。後ろの家臣衆が息を呑む。
「為さぬならこの身は腹を切り、殿の前で屍を晒そうぞ」
殿は鋭い視線を投げかける。私は懐より白の扇子を取り出し、短刀を乗せる。
「今は太平の世だ。息子一人の命と太平の価値、どちらが重いと考えるか」
「……此れより我が身は犬死にをするのですぞ。それでも為さらぬか!」
殿は顔を憤怒に歪める。後ろの家臣衆から悲鳴が聞こえた。
「然らば死ねい! 太平の世を乱す気など」
「然らば見よ! 介錯は我が息子がやれ」
羽織をはだけさせ、短刀を腹に突き立てる。痛みと吐き気が襲いかかり、吐かぬようにこらえているうちに、視界が反転した。
私の眼の前には、首を抱えて屍を晒す、かつての友がいる。家臣衆の冷たい目を受けながら、私は立ち上がって、妻が待つ部屋へと戻る。
「よろしかったのですか?」
「ああ」
妻の質問に、私は頷いた。
「彼は見事に役割を果たした ここまでやれば、相手方も我らの報復の企みを見抜けまい」
左腰に差した「力」を撫でる。これがあるから、あまねく凡人とは違い、自分は為すべきことを為せる。
「息子一人の命の方が、重いに決まっておろう」
黒い竹林の中で今まさに朽ちて行く、廃屋のような薄暗い庵の中。砥石は誰よりも饒舌だった。
「何を斬ったらこうなるのだ」
刀を検めたのち、研師は問うた。依頼人は答えない。
切先から半尺。物打と呼ばれる、打刀のうち最も強靭であり最も鋭利な、刀の心臓。そこに、心鉄に至るほど深い欠けが生じていた。
落ち武者と呼ぶにはあまりにも老いぼれた依頼人の男は、何も言わず、竹皮包みを研師に渡した。一塊の塩であった。
研師は金剛砥で欠けた箇所を擦っていく。斯様な、鉄を削るだけの行いを研ぎと呼ぶ者は居ないだろう。
「何を斬ったら、こうなるのだ」
研師は再び、問うた。
「何も斬ってなどいない。何も斃せず、何も成せなかった。だから、刀は欠けたのよ」
ふいに、打刀がぼきり、とへし折れる。弾け飛んだ切先が床板に当たり、こぉん、と音を鳴らす。修行僧の持鈴の音を思わせた。
研師は振り返る。老体の武者の姿は既に無く、塩の入った竹皮が隙間風に吹かれていた。
黒い竹林の中で今まさに朽ちて行く、廃屋のような薄暗い庵の中。最早砥石の音すら失われ、折れた刀の切先だけが残り火のように光っていた。
テーマ: 舞
舞う。眼前の虚空に舞う少女を想像する。これはモノローグかもしれないし、あるいはあなたに対する一種の暗示の類かもしれない。いずれにせよこのパラグラフは目的を果たしている。あなたは既に眼前で舞う少女を想像している。
舞う。少女は舞う。商品である自らの価値を証明するために。汗ばんだ艶やかな肌は、少女の内包する果実のような生命力と、糸を引くようなその他の性能を暗喩する。くるくると回る。蜘蛛が巣を張る時のように。
舞う。少女は舞う。巫女として、民草の祈りか、願いか、あるいは大儀を小さな背中に背負って。日が沈むまで任を果たし続けた暁には、人里に帰って労をねぎらわれるのかも知れないし、遂に贄としての役目を果たすのかも知れなかった。
舞う。少女は舞う。あなたの初めての恋人である少女は、舞台の上で独り、くるり、くるり、舞っている。彼女がせっかくあなたに見せているはずの舞踊なのに、どこか他人事のような可憐さを内包するそれを、何か恐ろしく感じてしまったあなたは視線を床に落とす。床一面の少女たちの顔と目が合った。
舞う。動詞。くるくると回る事。ごうごうと燃える炎を囲んで少女たちは回る。思いをその回転の中心へと焼べるように。どうか、私たちの回転がなるべく長く、この炎のような呪いを続かせられますように。
舞う。眼前の虚空に舞う少女を想像する。これはエピローグかもしれないし、あるいはあなたに対する一種の呪いの類かもしれない。いずれにせよこの684文字は目的を果たしている。あなたは既に眼前で舞う少女を想像している。
何かを恐ろしく感じてしまったのなら、あなたは床に視線を落とすことができる。
軽自動車のヘッドライトが、舞う毛と肉の塊を照らす。僕はそれを、歩道橋の上から見ていた。
運転手は野良猫の死骸を道路脇に寄せる。随分と優しいことだ。数分に一度しか通らない車に、ピンポイントで突っ込んだ馬鹿猫のために時間を使うなんて。冷笑主義は自分が無為に飲んでいるレモンサワーを棚に上げて、そんなことを思わせる。
あの猫は死にたかったのだろうか。確かめる術はないし、確かめるべきでもない。死は生きられなかったという結果でしかなく、他人が感情を後付けするのは傲慢だ。
歩道橋から下を見る。高度としては足りないと思った。僕が本懐を果たすのなら、数分に一度しか通らない車に、ピンポイントで突っ込まないといけないのだ。
猫がそうしたように。
息を吐く。僕はあの猫が撥ねられ、死ぬところを見た。一度止まった車は、歩道橋の下を不十分なスピードで通り過ぎた。あの軽自動車は、20m間で二つ以上の命は奪えないらしい。
その程度には僕の命は丈夫で、猫の命は重い。結構なことだ。
200円に満たないロング缶は、さっきからちっとも減っていない。安酒で酔い切るには上等な味覚を持っていることに、惨めな僕は救われている。
ふらつきのない足で、歩道橋を降りることを選ぶ。猫のせいで、あるいはおかげで。高所恐怖症の僕は、嫌いな場所から離れられた。
宙を舞えるほどの過熱はとうに消えていた。あるいは、最初からそんな熱はなかったのだろう。
帰路の端、草むらに野良猫の死骸。少し考えて、安酒を草むらに流す。廃棄と変わらない自分勝手な弔いに、言葉を持たぬ其れは何も言えない。
猫は起き上がらないし、俺は明日から安酒を飲まない。それが、この夜の結果だった。
保健室で過ごす三度目の初夏、先生に連れられて部屋に入ってきたのは細身の男子だった。私と視線が交わる寸前で慌てて目を逸らすのを見て、彼も虐げられてここへ流れ着いたのだと分かった。
彼は朝早くにやってきて、午前の内に帰っていく。来る日もあれば来ない日もあった。漂う沈黙が心地良かったから、互いに言葉を交わそうとはしなかった。
一学期の終業式の日。ふと課題から顔を上げると、彼と目が合った。
「俺、引っ越すことになった」
将来の夢はバレエダンサーで、それが原因でいじめに遭い、親の転勤に合わせて引っ越しが決まった。たどたどしい説明を要約するとそういうことらしい。
「それで……」
彼の語尾が宙に溶けた。
私の番だ。彼の話を深掘りするなり、自分の事情を語るなり、何でもいい。焦燥感に駆られて口を開く。
「頑張って」
出てきたのは的を外した一言と下手くそな笑顔だけだった。彼が曖昧に頷く。会話はそれきりで、彼は黙って教室を出ていった。
これでは駄目だと分かっている。なのに踏み出せないから、私はここにいる。独りで項垂れていると、床に落ちた紙片が目に入った。
ジュニアバレエ公演のチケット。落とし主は言わずもがな。皺が寄っていて、触ると僅かに熱を帯びていた。ズボンのポケットにでも入れていたのだろうか。
なんのために?
彼の様子を思い返す。言葉に詰まりながらも懸命だった。途中で言葉を切った時も、最後に頷いた時も、何か言いたそうにしていた。
チケットを見る。日程は今週の土曜日、会場は街中の大きなホール。気軽に行ける場所ではないし、バレエのことは何も知らない。
考えるまでもなく答えは出ていた。チケットをそっと握りしめる。
今度こそ、私の番だ。
スーパーでばら売りの舞茸を買った。手に取ると独特の香りが土の匂いと共に鼻に抜ける。
彼氏がいた。料理好きで愛想が良くて、こっちの話をまるで聞いちゃくれない。きのこは嫌いだと言っても、ピザにも釜飯にも混ぜ込み、親が子にするそれみたいに食わせようとしてくる。その度に皿からきのこを摘まみ上げ、少しだけ食べることを条件に目の前の男の皿にそれを移す。
土付きの舞茸を山のように買って帰って来た時は本当にうんざりさせられた。舞茸は見つけたら舞ってしまう程おいしいから舞茸!じゃねえよ、食いたくねえって言ってんだろ。ぐにぐにしたまずい食感を水で流し、味付けされた舞茸をあいつに食わせる日が続くそんな時もあった。
彼氏と俺が夫同士になれる程年月が過ぎた時、あいつは料理が出来なくなっていた。認知症が脳を侵食し年老いたあいつを徐々に曖昧にしていく。日々のちょっとした度忘れや失敗から、こうなることが少しずつ分かってきた。
何十年も自炊が出来なかった俺は、悪戦苦闘しながら料理を作り始めた。次第に互いの力量は縮まり最後には逆転した。だが、若い頃味わったあいつの味には程遠い。あいつの好物を作り続けるのは、せめてもの埋め合わせだ。
「味噌汁の舞茸凄く美味い。舞茸は見つけたら舞ってしまう位に美味しいんだ。だから名に舞が付く」
舞茸からは美味い出汁が取れる。味噌汁の味に随分深みが出ていて絶品だ。
「初めて知った、よく知ってるな。舞茸好きならお前にやる」
箸で舞茸をはさみ、あいつの器へと運ぶ。出汁は好きになれても、やっぱりあのやわい食感だけはどうにも駄目で、少しだけ食べて他は全部夫にやるのが大抵だった。
上手く扱っているつもりのニヤケ面に、いつか一撃キメてやる。アイドルになってからそれだけを思い続けてきた。構わない。時が来るまで、扱うに足ると思わせながら手の中でも踊ってやる。
そして、時が来た。グループが羽ばたくかどうかが決まる音楽番組。ひな壇で得意げに語るセンターと、ニヤケ面のプロデューサーが顔を歪ませる姿を夢想しながら、歪んだ愉悦を笑顔で塗り固めて、サングラスの司会に答えていく。
インタビューが終わる。舞台の幕が上がる。今ここは生放送、この場で私が主役を食えば、プロデューサーに私をセンターにする選択肢を植え付けられる。それさえ叶えば、私は必ずトップの座に皆を連れていける。
日舞とバレエ、そしてアイドルステップ。混ぜ合わせたそれこそが私のダンス。歌だってセンターに負けやしない。必ず喰ってやる。そして音楽が始まって──センターが私に居場所を譲った。自然な動きで、最初からそうなるように練習していたかのよう。今までバックダンサーとしてやってきた私が堂々を咲く場を与えられたのだ。
「なんで私をセンターにしたんですか」
大成功裏に撮影が終わり、楽屋でプロデューサーに詰め寄る。センターはその横で静かに笑っていて、私の描いた夢想はちっとも実を結んじゃいない。
「君がステージを壊そうとしているのは分かっていたからね」
責任を君に取ってもらうことにしたのさ、とニヤケ面の彼が言い、
「あなたがそんな無責任な事をする訳がないのは、私が知っていたから」
お客様が喜んでくれると思ったから受け入れたの、と彼女が微笑む。
穏やかに笑う彼らを前に、私の小ささを思い知らされる。踊ってやるつもりで、私は踊らされていたらしかった。
舞台上のダンサーを射殺する。照明室は買収済み、狙撃銃の照準は既にゼロ番を捉えている。
ダンサーは女性活動家でもある。国教の戒律と女性の人権問題が食い違う国の出身だ。彼女は権利団体のアイコンとして強烈な存在感を放つ。暗殺の依頼は、団体の別派閥を仕切る女からだった。女の死を敵対組織の犯行に仕立て上げ世論を誘導し、派閥が団体を掌握する。
この引き金が何を産んでも、僕には報酬が全てだ。
——舞台が暗転する。耳を澄ませば、舞台上に軽い足音が聞こえる。照準を覗き込む。
女の衣装は奇抜なもので、人体の正中に沿って光る釦が付いている。特に煌めいていたのは額のティアラで、暗闇の中、一等星のように見えた。舞台が明転し、女の表情が明らかに、なる。ほのかに強張って、しかし覚悟と、恍惚が滲んでいる——さては。
この女、全部を理解してここに居る。
正中線を目立たせるような衣装は銃口の誘導でしかない。この女、ここで死ぬ覚悟がある。彼女の舞踏は、舞台の上にありながら自然体で、巫女舞を思わせる清らかさで知られる。どこに在ってもその場所に光が差すような聖性を帯びている。この女はそれさえ利用するつもりだ。
舞台の上で死ねたら幸せ、とでも言うのか?未来への供犠として神格化されるのが望みか。あるいは内輪揉めの末に殺されて、世界中から同情されたいのか。
心底興醒めした。僕は長いため息の後、狙撃銃を片付けた。ダンサーを一瞥する。死の恐怖に強張りながらの舞踏は、さぞ精度が落ちるだろう。お前が人間であることを、この舞台に暴かれろ。そんな意地悪な気持ちで照明室の扉を開けると——
依頼者が、こちらに銃口を向けているではないか。
人生字を識るは憂患の始め。字を識り、文を読み、学を修める。こなせばこなすほど人生に苦しみは増える。字を識らぬは王道なり。本を捨て、陽の当たる道を歩め。憂いも患いも忘れられるように。
人生字を識るは憂患の始め。小学生の頃、図書室で読みふけった少年探偵団のシリーズ小説。図書カードに並ぶ同じ著者の名前に、あまり読書を嗜まない両親は「違う作家も読むように」と苦言を呈した。字を識らぬ者たちは幸福である。
人生字を識るは憂患の始め。学生時代に初めて恋人からもらった手紙は、薄水色の便せんに紺のボールペンで書かれていた。他人事を歌うばかりだった文字が初めてこちらに視線を寄越して、とても恐ろしかった事をよく覚えている。手紙の文面も、その日に吹いた北風の香りも、同じくらいよく覚えている。
人生字を識るは憂患の始め。小説の文庫本は資格の参考書になり、宝物だった恋文は雇用契約書になった。生計のために求められる文字は、テンキーで打ち込む正確な数値と礼儀正しいメールの文面であり、気取った暗喩も、情景描写の温度も、まったく無用な憂患の類であった。
人生字を識るは憂患の始め。字の何たるかを最近になって識り始めたアマチュア字書きの筆は重く、燃費が悪い。キーボードの隣にはいつだってロング缶の残骸が林立していて、これまでの進捗をアルコール摂取量で容易く換算することができた。二十三時。ただ一人、文字を書く。夜道を歩む隠者のように。
人生字を識るは憂患の始め。字を書き、文に苦しみ、本と為す。こなせばこなすほど人生に苦しみは増える。字を識るは求道なり。本を手に、月明りを辿れ。憂いも患いもお前だけの物なのだから。
「カモミールにしないんだね」
地元の小さな喫茶店。毎年、彼女はここではカモミールティーと苺のショートケーキのセットを注文していたはずだ。 あまり香りの強いハーブティーを好まない彼女が、「これは好き」と言いながら飲んでいたのを覚えている。
「え? あー……、いつも飲んでるからたまには違うのを、と思って」
目尻を下げて笑いながら言った。彼女は嘘を吐く時、いつもこの顔をしていた。 嘘も方便だと、大して上手くもないのに昔から場を誤魔化すための嘘を言う癖が彼女にはあった。
嘘の内容も大方予想は付く。半年前に結婚していたのは知っていたし、入店時から腹部を気にしているのにも気付いていた。そして、カモミールは妊娠時には避けた方が良いとされている銘柄だから。
相変わらず不器用だな、と思いながら、ゆっくりと言葉を探す。
「じゃあさ、この後お茶でも見に行かない? 他のノンカフェインで落ち着いた銘柄のやつお勧めしてあげるからさ」
お祝いも兼ねてね、と小さく付け足すと、彼女は目を丸くした。
舐められたものだ。今まで散々看破されておいて、未だに嘘がバレないと思っている。 そして、その隠した事実で今更私が傷付くと思っている。
私が彼女のことを想っていたのは事実で、その上で彼女がそれを選ばなかったのも事実で。 それでも、それ以前に私はあなたの友人で、あなたの幸せを何よりも願っているのだから。 あわよくば、私が選んだ茶葉があなたの生活に入り込んで、私を忘れないでいてくれるくらいの役得があれば、それで。
少し経って、彼女はぽつりと「そうだね、ありがと」と溢して、柔らかく笑った。 あぁ、やっぱりこの顔が好きだなと思いながら、つられて笑った。
優勝
1NAR1
(10pt.)
2位
SuamaX
(8pt.)
3位
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予想屋部門
優勝
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EianSakashiba
(4pt.)
主催 - meshiochislash does not match any existing user name
